過ちを清め、人を更なる段階に高める信仰行為

預言者ムハンマドは次のようにおっしゃられている。

「アッラーがあなた方の過ちを消して、清められ、更なる段階にあなた方を高められる重要な点について説明しましょうか?」教友たちが「はい、アッラーの使徒よ」と言い、預言者は続けられる。「(条件が厳しくなり、)小浄(礼拝する前に身を清めること)をするのが難しい時に、不足なく完全な形で小浄をすること、モスクと(家との間を行き来して)多く歩くこと、礼拝の後次の礼拝を待つこと、これらによって、(境界線で順番に見張りをするほどの段階で)自らをアッラーに結びつけることができるだろう」[1]

ここでもまた、我々の力が及ぶ範囲でこの価値あるお言葉を見ていきたいと思う。

まず、預言者は〔アラ〕(...してあげようか?)という語を最初に用いられ、聞き手の注意を喚起されている。なぜなら、それに続く部分で語られる事項は、注意深さを必要とするものであったからである。これらを実行することは、注意深さ、用心深さが伴ってこそ可能となる。行為の中には、眠ったままでも実現可能なものもある。例えば、誰かが眠っていて姦淫を行なわなければ、あるいは眠っていて人の悪口を言わなければ、少なくともそのような罪を犯さないという点で成功した事になり得るのだ。ただ我々がここで述べようとしているのは、特に用心深さを必要とし、注意深い者だけが成し遂げることのできる行為である。だからこそ預言者は、まず最初に注意を促す〔アラ〕の語を使われたのである。

過ちという語もハディースの中で注意を引くものである。全ての人は過ちを犯す。もし、自分は過ちを犯さないと言う者がいれば、彼は最も大きな過ちを犯した事になるのである。過ちを犯さないことは預言者にのみ与えられた特性である。誰でも過ちは犯す。ただその中で最も価値ある者は、悔悟する者である[2]。預言者はここで、人を地獄へと追いやる過ちから逃れる手段を伝えることを望まれているのである。

ただ過ちから清められるだけでは不十分で、人が少しずつ更なる段階に進んで行くことも重要である。そもそも過ちから清められることは、一歩段階が上るということでもある。その他に行なわれる宗教行為によっても同じように少しずつ更なる段階が獲得され、結果として人は光の渦巻きの中に入り、常に無限に向かって進んで行くのである。アッラーの真実を知るという航海へ出るとはこういうことなのだと私は思う。

これらの行為の中で一番めに挙げられているものは、困難な状況にあって小浄を行なうことである。ただしこの小浄は、不足なく完全である必要がある。雪の中で、冬、寒さの中で、時には水で小浄ができないような状況で...。

二番めは、モスクへと向かう道で人生の多くを費やすことである。このような生き方は、種のように、あの世で天国の果実を実らせる木になるであろう。遠くの礼拝所に行くこと、常に行き続けることも、その二番めの行為と見なされるものである。

三つめは、それぞれの礼拝の後次の礼拝を待ち望むことである。これは、別のハディースでも述べられているように、心が礼拝所に結びつけられているということである[3]。

礼拝を目的にする

ハディースでは三つのことが説明されているが、注意して見ればこれらは全て礼拝に関することであることがわかる。

礼拝は魂の休息であり、体が清められることである。アッラーの使徒の激しい望みは、礼拝に対して向けられていた[4]。だから預言者は毎回ビラールに声をかけられ「ビラールよ、我々を少し楽にしてください!。(我々の心に水を撒いてください)[5]」と言われたのであった。そして「礼拝は私の目に光を与えた[6]」とも言われた。我々が天国に入ろうとして感じる望み、願いを、預言者ムハンマドは毎回礼拝する毎に感じられ、そのために礼拝が済むと次の礼拝を強い願いの内に待たれたのだと私は思う。

礼拝は人の人生において、昇天(ミーラージュ)につながる、人に人の真実を最も適切な形で気づかせる重要な要素であり、信者の昇天とも見なされるものである。

礼拝は教えの柱である[7]。礼拝が教えを前進させる。礼拝がなければ教えが長く存続し続けることは不可能である。礼拝はそれ自体が注意を喚起するものであり、だからその実行においても注意深さが必要である。人は礼拝の時、心や感情を全てのことから自由にして、それを実行すべきである。例えばトイレを我慢しているような状態で礼拝をすることが不適切とされているのはそのためである[8]。人は、頭がそういったことで一杯の状態で礼拝をするべきではない。その場合人の頭は両方のことと関わる必要に迫られる。そうした場合、大切な事を逃してしまうことが多いのだ。さらには、人がそんな状態で礼拝をすることは、礼拝に対する侮辱にもなり得る。礼拝というのは、そういう風に軽くあしらわれるべきものではない。さっさと済まそう、と片付けられるべきものではない。礼拝は、その場を光で照らすためにあるものなのであるから。

礼拝への準備

別の観点から、心の平安の内に礼拝ができるよう行なわれる全ての準備作業はまた、礼拝と同じように善行と見なされるものである。まず、放棄するべきものは放棄し、宗教行為の扉の中にただその感情のみで入って行き、礼拝中に気を散らせるような全てのものから自由になり、その上で礼拝を始めるべきである。このようにして、礼拝を始める瞬間までに行なわれる全ての行動が、その人の善行とみなされる。

そこには心の平安の内に礼拝をしようという意志が存在し、そしてそうした信者の意志は、行いそのものよりも価値があるためである[9]。信者でない者が、心の平安を得ようとした場合、ただその必要を満たすことができるのみだが、信者の場合はその行為は善行と見なされるのであるということを考えてみてほしい。トイレで用を済ませたあと、尿が滴ったりしないよう待ってから小浄を行なう事さえも、善行になるのである。

必要が満たされること、小浄が行なわれること、これらは人を心から礼拝に準備のできた状態にするものであり、本来とても重要なことである。小浄を行なうこと自体にも、様々な効用がある。体の帯電流に与える影響などがそうである。しかし信者たちは小浄を行なう時そのような神意には考えが及ばない。彼らはただその小浄の目的が何であれ、そのことだけを考えつつ小浄をする。彼らの頭に浮かんでいることはまず礼拝である。

小浄のための準備は注意の喚起のまず一つめであり、小浄がそれに続く二つめである。それからアザーン(礼拝の呼びかけ)が唱えられる。こうして礼拝のために三つの注意喚起が行なわれる。そして、小浄をする時、またその後スンナ(預言者の慣行で随意の行為)として水を飲んだりお祈りを唱えたりすることによって、人の体は物理学的にある種の電流を帯びる。それに加えてスンナの礼拝が行なわれ、こうして人はファルド(義務)の礼拝を行なうのに準備ができた状態となるのである。

礼拝の扉の内部にある全てのものは、我々に礼拝を思い起こさせる。モスクの塔から聞こえる声(アザーン)は我々の電流を増し、我々は体でもってアッラーの偉大性を感じ始める。礼拝所へと向かう足取りを速める。こうして、アザーンとして別の世界から流れてくる呼びかけに応じているかのように、急ぎ始める。アザーンの声が終わりに近づく頃、我々も魂や心と溶け合った状態になる。それから礼拝所に入り、ナーフィラ(義務ではなく希望による行為)の礼拝を始める。これも、我々にとっては義務の礼拝への扉を開くものであると言える。こうしてナーフィラの礼拝によって我々はアッラーのほうに向きを定め、そしてあたかもアッラーにこのように訴えているのである。

「アッラーよ、いつでもあなたの方を向いていられますように。いつでもあなたを見て、あなたを聞くことができますように。いつでもあなたを思い起こしていることができますように。あなた以外の方を向いて、あなた以外のものと関わりあっていることは全て無意味です。私は無意味なものから逃れ、とても重要なものに向き合っていたいのです」

ナーフィラ(任意)の礼拝によって扉を開け、神の扉のノッカーに触れること、義務の礼拝に意識を持って入って行くことができるよう努めること、これらは義務の礼拝にふさわしい状態であるために重要な手段である。

小浄とアザーンがそれぞれの役割を果たしたあと、ナーフィラによって我々は次の一歩をも踏み出せた事になる。そこに到って、ムアッズィン(アザーンやイカーマ(男性が義務の礼拝に始まる時する呼びかけ)を詠む者)が現れ、誠実さを持ってアッラーの方を向き、イカーマを行なうのである。我々にとってこれは、興奮という名のコップを溢れさせる最後の一滴となる。

この状態にあって、もし心に興奮が訪れず、アッラーに対して方角を定めることができず、またミフラーブ(モスクの中で礼拝する方向を定めるもの)はどちらか、と見つけようと苦しむ状態になれないのであれば、何か不十分な点があるということである。

イカーマによって、アッラー以外、人の気を紛らわさせる全てのものに最後の打撃が加えられ、しもべも「アッラーフアクバル」(アッラーは偉大なり)と唱えながらその感情の内に礼拝を始める。ルクーウ(立礼)で、サジダ(平伏叩頭)で、常にこの言葉は繰り返され、その度に神の偉大さと自らの卑小さを宣言することになる。「神よ、あなたは偉大であられます。私は小さな者です」と言い、偉大な神の前にしもべとしての意識で頭を垂れる。これらを礼拝でそれにふさわしい精神状態でいられるための普遍的なあり方と言うこともできよう。

人は、礼拝でアッラーに到達する。預言者ムハンマドがミーラージュでアッラーに到達された時のように、人は座ったまままっすぐアッラーの方を向き、預言者がアッラーに送られたように、人もその挨拶を繰り返すのである。

過ちを清める

このハディースでは、過ちが清められるということについて触れられ「過ちを消し、清める」という表現がされている。過ちは種のように、人の摂理として存在するものである。人はこの種を、成長させるか、あるいはさせないかどちらかなのである。アッラーの使徒が勧められている事に従うことによって、アッラーは過ちを消され、清められ、悪い方に進む可能性をよいものへと変えられるのである。

聖クルアーンでもこの真実は示されている。アッラーはこのように言われている。

「アッラーはお好みのものを取り消し、または確認される。啓典の母体はかれの御許にある」(雷電章13/39)

過ちは生まれつきの、人の摂理から切り離せない病であり、全ての人にとってとても重要な事柄である。それが清められるということも、必ず全ての人に関わりのあることである。

人は誰でも過ちを犯す。あるいは生涯過ちの繰り返しの中で生きるかもしれない。ただ、これらの過ちが消され、その代わりに更なる段階への達成が成し遂げられることは、いつでも、誰にとっても可能なのである。このような幸運に到達する手段の一つが、全ての苦労に耐えて小浄を行なうことであり、二つめは真剣な願いと思いを持って常に礼拝所に駆けつけること、それからあたかも心が礼拝所に結びつけられているように、再び戻ってくる意志を持って礼拝所から離れることである。三つめは、礼拝の後次の礼拝を待つことである。これらは、過ちを消すと同時に、人を少しずつ更なる段階に高めていく行為である。

用心深くあること

アッラーの使徒はこれらの行為を〔リバート〕と表現され、この語を三度繰り返されている。

〔リバート〕とは、物質的・精神的な恵みが訪れること、という意味の他に、様々な災いや苦しみが襲い掛かってくるであろう地点に対して用心深く、注意深くあること、さらには自らをある仕事に結びつける、あるいはそれに身を捧げるという意味をも持つ。危険を承知で身を捧げる兵は〔ムラービト〕と言われる。それの複数形が〔ムラービトゥーン〕で、かつてこの言葉からなる名前をもった国家も存在した(1056~1147年)。

聖クルアーンでは「あなた方信仰する者よ、耐え忍びなさい。忍耐に極めて強く、互いに堅固でありなさい。そしてアッラーを畏れなさい。そうすればあなた方は成功するであろう」(イムラーン家章3/200)と命じられている。

他の章でも「彼ら(敵)に対して、あなたのできる限りの(武)力と、多くの繋いだ馬を備えなさい」(戦利品章8/600)と命じられ、別の観点からこの〔リバート〕へ注意を呼び寄せている。

〔リバート〕という語が、自らを捧げる、献身するという意味を持つことから考えるなら、人は完全な小浄をして家と礼拝所の間を行き来し、心を礼拝所に結びつけた形で家や仕事に戻ったなら、その人は自らをアッラーに捧げた、ということになるのである。

この説明によって預言者ムハンマドは、次のようにも言われておられるのである。すなわち、元来そもそもリバートは、敵に対して兵士が国境線を守るために身を捧げる事を言う。外からの敵に備えること、彼らがやって来るであろう地点でそれを防ぐこと、これらがリバートであると同様、人にはシャイターンや欲望という名の敵に対しての戦いもある。この戦いはある意味では外部との聖戦よりもさらに重要である。人はこの二つの聖戦を成し遂げなければならない。一つは小さな聖戦、もう一つは大きな聖戦と言われる。

人は敵と奮闘する時、欲望に関わる、不貞な事を考える機会を持たないことが多い。このような人が、自らの体、死体の下敷きになってしまう可能性はそれ以外の場合よりも少ない。なぜなら、人格全てをこの聖戦という思考が包み込んでいて、彼はそれのみと関わるようになるからである。逆に、安楽の中に引き込まれている場合、その魂が悪いものに包囲される可能性はさらに高い。そういうものに対して精神世界を守り、注意を払っていることが必要である。この聖戦で使われるべき最も重要な武器が、礼拝なのだ。場合によって一人がその義務を行えば十分なものと、皆にとって義務と課せられたものとがある。物質的聖戦と精神的聖戦との間には義務という面でも相似点がある。預言者ムハンマドがある戦いから戻られる時「小さな聖戦から大きな聖戦に戻るところです」[10]と言われたのはそのためである。

人の心がモスクに結びついていること、礼拝と一体化すること、預言者の理解と共に礼拝に愛の感情で結びつけられること、礼拝がその人にとって何よりも大切なものとなること、これらは前線で見張りに立つ兵士たちの行動に等しいものである。

ここでの感情や思考をまとめるなら、それは三つに分けられ、そのうちの二つはどちらかというと行動に関する物、一つは意志に関するものである。これらの感情や思考によって、人はある境界線の内側に導かれる。「本当に善行は、悪行を消滅させる」(フード章11/114)という一節の表現によって考えるなら、人を過去の罪から清め、将来犯し得る罪に対しても、宗教行為への熱意や神へのつながり、意志の力によって対抗する事を可能にするのである。

まずは一つめに関して言文したい。水や気候といった要素が小浄をするのにふさわしくない状態で、例えば水温や気温が低い時、あるいは水が不足して小浄のために使うことができないほど貴重なものになっている状態において苦心して小浄を行なうことは(もちろん、そうすることが不可能な状態の場合を除いて)、深い誠実さと善行への熱意、そしてしもべとしての願いを要するものであり、それらがあってこそ小浄は実現される。もし人が最も困難な状況において小浄を行い、これらを示すことができるならば、彼の心は平安で、アッラーとの結びつきができているということである。このような状態にあれば、罪が魂の深いところに突き刺さった場合でさえ、それがそこにあり続けることは絶対にないであろう。

小浄は体の電気の均衡を取り戻し、人をストレスに勝たせるものでもある。また精神は日に五度、物理的な力で新たにされる。これらは事実であり、確認されていることではあるが、ここでのテーマを超越するものでもあるので、ここでは触れないでおく。

次に二つめに移ろう。ある意味ではミーラージュ(昇天)である、アッラーへと至る道を行き来し、礼拝所への道を通い詰めること、これには体を健康にし、物理的な力が守られるという効果も秘められている。魂が、理解を超越した喜びに高揚すること、心が礼拝がまだ始まらないうちから礼拝への思いに満たされること、完全な宗教行為のために必要な集中がなされること、「多くの歩み」と表現されるその長い道のりで様々な思いにふけること、それによって変わっていくこと、変わっていくことの中でも、暗い過去を後悔によって消し去り、悔悟によって白く染め直すということは、善行が新たな善行への手段になっていくという意味から、非常に神聖な部分である。こういった事を決意した人の過去は「結果アッラーはあなたの過去の過ちを許されるだろう」という言葉からもたらされる約束に委ねられ、将来についても「将来の罪も」という防護塔に委ねられる。だからこそ、この道のりで、どの場所においても人の目は「アッラーが過ちを消され、清められ」という言葉と共にあり、心は「更なる段階に高められる」という奇跡に活気づくのである。

最後に三つめを見てみよう。愛する人と会う事を待ち望むように、礼拝の時間を待つこと、その神聖な時を時刻表のようにして、生活や活動をそれに合わせて調整すること、これは想像を超えた時間の概念である。人はそれによって、礼拝のない間隔時間をもその意志によってのみ埋めることができるようになる。礼拝時間が一定の間隔をあけて定められていることから来る、礼拝時の心の平安とアッラーへ近づいた感覚を、礼拝以外の時にも保ち続けることができるようになり、この世的な事項をもアッラーへと結びつける事によって、全てを宗教行為として行なうようになる。限りがある中でも、意志によって無限と化す多くの宗教行為のように、待ち続けた魂で行なう礼拝も、物質的・精神的聖戦と同様、リバートという語を伴って、人とアッラーとの結びつきの称名となるのである。

これも、小浄に始まり礼拝によって高められる信者の輝かしい世界の描写として、とても短く、しかし深い、凝縮された預言者の言葉の一例である。これ以上言葉を長引かせる前に、預言者ムハンマドの別の輝かしいお言葉に移る事にしよう。

 


[1] Muslim, Taharah 41; Tirmidhi, Taharah 39
[2] Tirmidhi, Qiyamah 49; Ibn Maja, Zuhd 30
[3] Tirmidhi, Zuhd 35
[4] Haithami, Majma' al-Zawa'id, 2/271
[5] Ibn Hanbal, Musnad 5/364, 371
[6] Ibn Hanbal, Musnad 3/128
[7] Hindi, Kanz al-'Ummal, 7/284
[8] Ibn Maja, Taharah 114; Musend 5/250
[9] Haithami, Majma' al-Zawa'id 1/61,109
[10] Ajluni, Kashf al-Khafa' 1/511, 512

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