言葉がもたらす災いと純潔さ
預言者ムハンマドは次のように言われた。
「誰であれ、その両あごの間と、両足の間の事について私に約束し、保証する者に、私は天国のための保証人になろう」[1]
これを語られたのは預言者ムハンマドであり、このお方は人間が何を保証できて何を保証できないか、誰よりもよくご存知でおられる。天国を保証するとこのお方が言われたのであれば、必ずそれは保証されるであろう。なぜなら、兄弟のように親しかったウスマーン・ビン・マズウンのような教友について、その妻が「あなたは天国の鳥となって言ってしまった」と言ったのに対して「私はアッラーの預言者であるが、私にもそれはわからない。あなたは彼が天国に行く事をどこから知ったのですか」[2]と言われるお方でもあるからである。
つまり、その言葉と、自分の下半身をコントロールすることを約束し、その約束を守る人には、預言者は天国を約束され、これも決して適当に言っておられるのではないのである。必ず、アッラーがこの事について彼に知らされた事に基づいて語られているのである。
そもそも預言者ムハンマドはいつでも、そのようにされていた。その逆のような状態に陥ることはなかったのである。従ってそのお方が言われることは常に事実であり、真実である。その約束も、定められた時が来れば必ず実現する。
もしあなたが自分の話すことに注意を払い、性的なことでも純潔を守っていれば、もしあの世で、懲罰の天使があなたを捕らえて地獄へ連れて行こうとしたとしても、あなたは大声で預言者があなたの保証人である事を訴えることができる。あなたのその声に、預言者は駆けつけ、とりなしをして下さり、保証人になって下さるであろう。
話すことは恵みの一つである
そもそも人の口は、話せるという恵みの持ち主である。その価値が計り知れないほど大きな器官なのである。ただしこれほどの器官でも、悪い事に使われた場合は、人を破滅や災いに導く最も危険な道具と化す。人は口でもってアッラーの御名を唱え、偉大さを知り、善を命じ、悪を禁じるのも口である。人は口で聖クルアーンを読み、その節を読み、それを他人に説明する。時には、信じない人を説明する事によって信仰に導く。このようにして、何よりも価値のある事を行なった事になり、人はその口によって、天国の最も高いところをも獲得することもできる。
しかし、口は人の破滅を用意することもあり得る。全ての憎悪や裏切りの媒介となるのは口である。アッラーやその使徒をののしる者は、その恐ろしい罪を口でもって犯しているわけである。嘘、陰口、非難、それらは全て口で行なわれる。人はその口によって、ムセイレメ(偽りの預言者)の嘘の穴にさえ落ち込むことがあり得るのである。
このように預言者ムハンマドは、これだけの言葉で、この器官に注意を引き付けられている。これだけの言葉に、まだ今まで書かれてこなかったもっとたくさんの真実が秘められているのである。我々がここで少し触れたことも、その中の一つである。
「口は、適切な形で使いなさい、私もあなた方に天国を約束しよう」ということを伝えているのである。これは「口を閉じて、隅の方にいなさい」という意味ではない。適切な形で使いなさい、ということなのである。
表現に見られる美徳
預言者ムハンマドは人前で言うのは遠慮されるべきである器官の名を直接述べられてはいない。「足の間」という表現をされている。これもこのお方の素晴らしい徳の表れでもある。このお方は常に、自然な、天性による摂理を語られる時でさえ、彼特有の美徳の持ち主であられるのであり、このような一部の人にとっては最も気に入らないような事項を語られる時は、それを彼特有の表現によってきれいな形にされた上で口に出されるのである。このお方は徳と性格において、計算された存在なのである。
このように、人前では憚られるべきこの器官について触れられる時、預言者ムハンマドは特有の美徳によってこの器官を表現され「両足の間」と言う表現を使われているのである。美しさにふさわしいものは当然美しさである。
両足の間
これは非常に重要な事項である。聖アーダムが天国から追放される原因になった禁じられた果実も、彼の前にそうした姿で現れたと言う。ここでは、この話を詳しく解説することはしない。ただ、この重要性についてのみ、少々触れておきたい。
子孫の継続はこの道からなるものであるが、同様に、姦淫や売春行為によって子孫の荒廃をもたらすのもまたこの道である。これが悪い形で実行されると、誰が誰の子供で誰が誰の親か、という混乱が起き、法によって守られるべき最も重要な点が崩壊してしまう。すなわち、誰が誰の父親か? この人の遺産は誰が引き継ぐのか? 誰が誰から権利を求めるのか? という問題が起こる。家族はいかにして保護されるのか、民族はどうやってその地位を維持するのか。こういったことは皆、この両足の間の問題にかかってくるのである。高潔な人々やその人々から現れた集団は、自分たちの体内にあるものを審判の日まで守り続けるが、姦淫や売春の泥沼にはまった人々、民族は、自分の存在を一世代後に残すことすらできないのである。
どのテーマにおいてもそうであるように、このテーマにおいても、ハラール(許されたもの)として認められている部分は大きく、それで人間の欲望には十分なはずである。人におけるその欲望は、最良の形で、ハラールとして満たすことができるのである。だからこそ、預言者ムハンマドは「結婚しなさい。子孫を増やしなさい。あなた方の数の多さを他の共同体に対して私は誇ろう[3]」と言われているのである。預言者は、御自身の共同体の多さを他の共同体に対して誇られるのである。その数は増えるべきであり、そうすれば他の共同体はその蔭に隠れてしまうだろう。共同体の数が増えることもまた、この両足の間の問題にかかっている。増加という結果はただこの道から得られるものなのである。純潔を守る者も、守らない者も、この道からそれぞれの結末へと進んで行く。これはこの相反する二つの道のどちらにも、非常に影響力を持つ器官なのだ。
人がこの欲望に対してハラールの道を求めれば、ワージブ(ファルド(義務)ではないがファルドに近くて、強く薦められるもの)の善行を行なった事になる。教友たちにこのことが明らかにされた時、彼らは驚き、なぜそうなるのかを尋ねた。それに対して預言者は微笑まれながらこう答えられた。「もしハラールな方法でなければ、ハラームになるのではなかったか?」[4] ハラーム(禁じられたもの)を放棄することはワージブである。従って、ハラールとなる形でそれを実行する者は、ワージブの善行を行なった事になるのである。
このテーマは言葉に出すのが憚られるようなものではあるが、しかし預言者たちでさえも通った道なのである。もしアーダムにこういった感情が与えられていなければ、この世界の名誉である預言者ムハンマドはどうやってこの世に生まれて来られることができたであろうか。あの禁じられた果実の本当の目的は預言者ムハンマドという果実の収穫であると言える。
「もしアーダムが、その禁じられた果実に手を伸ばすことと預言者ムハンマドの到来との関係を知っていたとしたら、ただ手を伸ばすだけではなくその木を根こそぎ食べていただろう」という言葉を私は熱い心を持ったある説教師から聞いたことがある。
アッラーの御前に近づくこと
ここで特に重要なある事項にあなた方の注意を引きたい。預言者は、その両あごの間や両足の間について約束する者に天国を約束されているのである。この世にいるうちから天国を約束された特別な人々についてはあなた方もご存知であろう。つまり、彼ら以外にも、高い段階に達したり、アッラーに近づいたりということによって、そのような名誉を得る者はいるということである。この名誉は、人が自分の言葉や性的行動を守ることの困難さからくるものである。欲望が全身を支配し、人格をも変えようとするその瞬間に、さらには彼の力が弱まってあらゆる悪に身をさらけ出しかけているようなその瞬間に、アッラーの承認を得るために彼が自分にブレーキをかけられるということは非常に重要なことである。そしてそれは彼をまっすぐ頂点まで引き上げる原動力になり得るのだ。このような行動を成し遂げる人は、預言者の保証のもと、天国へと飛翔することができるであろう。
繰り返し言いたい。自己の欲望にブレーキをかけられる者、悪に身をさらす瞬間に欲望をコントロールして罪を犯すことから逃れられる者、欲望に対して忍耐できる者、常にそのような弱さに対して忍耐している者は、他の者たちが何年もかかって獲得した恵みを、一瞬で獲得することができる。他の者が毎晩千ラカート(礼拝の単位)の礼拝をして獲得するものよりさらに多くのものを、しかも一瞬のうちに獲得することができる。そしてまっすぐ、アッラーの友となる段階に近づいていくことができるのである。ただし私はこういう表現によって、決められた回数より多く礼拝する事、断食する事を軽んじているのではない。それらもアッラーに近づく上で重要な手段である。ただここでは、人を完成された状態に近づける更なる手段を述べたのみである。
アッラーから望もう、我々に力を与えられ、人としての高い段階に達することができるように。それを悪用することから逃れられるように。危険に身をさらした状態で境界を守れるということはとても重要なのである。苦しみが大きいほど戦利品は豊富で、困難さが大きいほど高い段階に達することができるのだ。あなた方が困難な状況で成功し、絶壁のぎりぎりのところで踏み留まることができれば、その困難さに応じて報酬も多いのである。
もう少し解説してみよう。
例えば、アッラーはあなた方に、いくつかの有害な要素を備えられた。怒り、悪意、憎悪、そして性欲といったものである。しかしこれらのどれ一つとして、あなた方を支配できたことはない。逆に、あなた方はその驚くべき意志で、それらをコントロールしてきたのだ。そして、意志と魂の人として生きてきたのである。ファルズ(義務)やスンナ(随意)の行為を実行し、心や魂が高い段階を保つ事を追求してきたのだ。地獄へと続く道にある魅力的なものに惑わされず、天国へと続く道の困難さに耐えながら、アッラーに対する敬意を守ろうと努めてきたのである。そうしてあなた方は、預言者たち、教えに深い結びつきを持つ者たち、殉教者たちと同じ空気を分け合っていることに気がついたのだ。
世界が終末に近づいている時代、この膨大な反乱が起こるこの時代に、教えを守ろうと努めるこの甦った共同体を、預言者ムハンマドが満足して眺めておられるということの背後にも、この理由が秘められているはずだはずだと私は思う。繁華街や市場が、地獄の井戸のように人々を引き寄せては溶かしてしまうのに対し、自らの存在を守り、意志を通し、歯を食いしばって耐えるこの人々は、すぐに教友たちの仲間と見なされるであろう。教友は預言者ムハンマドの友であり、この人々は預言者の兄弟である。預言者は何世紀も前に、現れるであろうこの人々に対し、希望を明らかにされ、「我々の兄弟に平安あれ」[5]と言われたのである。
預言者ムハンマドは、この世紀の人々のために特に「誰であれ、その両あごの間と両足の間を守る事を約束するなら、私は彼に天国のための保証人になろう」と言われているかのようである。この言葉は次のような人々のために語られたものである。すなわち、天国を強く希望し、アッラーとその預言者にお目にかかる事に強い熱意を持つ者たちである。彼らは預言者の奇跡に満ちた言葉に従いながら行動し、胸をはって努力するのである。
このように預言者ムハンマドは、素晴らしい表現で天国へと続く道を示され、またこの短い表現の中で理想的な個人、共同体のあり方をも示されている。これほどの長い内容を、これほどまとまった形に凝縮できることは、預言者特有の知性の持ち主であること以外何を持って説明がつけられるだろうか。言葉の王は預言者ムハンマドであり、意味深い言葉、というのはこのお方の言葉にこそふさわしいのである。
[1] Bukhari, Riqaq 23
[2] Bukhari, Jana'iz 3; Ibn Maja, Jana'iz 7 ; Ibn Hanbal, Musnad 2/335
[3] Munavi, Feyzu'l-Kadir 3/269; Hindi, Kanz al-'Ummal 16/276
[4] Muslim, Zakat 53; Ibn Hanbal, Musnad 5/167,168
[5] Hindi, Kanz al-'Ummal 12/183
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