一部の禁止されていること、忌み嫌われていること
「アッラーはあなた方に、母に反抗すること、女の子を生きたまま埋めること、(遵守されるべき法や借金が)遵守されないこと、(権利がないものを)取ることをハラームとして禁じられた。陰口、たくさん質問をすること、(あちこちで)財産を使い(浪費することを)忌み嫌われておられる」[1]
母に対する反抗
母親に対して反抗的な態度をとることに関するここでの表現は、子が母との間にある全ての法的な関係を断ち切り彼女を孤独へ追いやることであるということを再確認させる。父親に対する反抗も同じように禁じられているにも関らず、ここで母親だけが取り上げられているのは、女性が庇護を必要とすること、弱いところがあること、性質として繊細で抵抗する力がないことなどのため、反抗に対してより傷つき易いからであると言うことができる。同時にこの表現によって、母が持つのと同じ権利を父も持つことから、父に対する反抗も反抗であることに変わりはなく、ただし母に対する反抗とは決して比べものにならないことが示されている。
女の子を生きたまま埋めること
無明時代、一部の地方では、また社会の一部の階層では、生まれてきた女の子は大抵生きたまま埋まられた。この野蛮な習慣を、ある者は無知から来る熱心さで、ある者は経済的な困難さから、ある者は資産や豊かさを女の子がする結婚のせいで失いたくないというような欲によって行ったのであった。どのような理由があるものであれ、これは野蛮な行為であり、禁止されなければならなかった。そして、禁止されたのである。禁止されるにあたって、聖クルアーンにもたくさんの命令がくだされたのである。
信頼への裏切り
遵守されるべき法が守られず、借金が払われないことについては〔メンアン〕という言葉で、また獲得すること、求めることが禁じられているものを違法な手段で求め、獲得することについては〔ハーテ〕という言葉で表現されている。これら、すなわち払うべきものを払わないこと、取ってはいけないものを取ることは二つともハラームである。これは、母や父に反抗すること、娘を生きたまま埋めることと同じ程度のハラームとなる。
同時に、これらの言葉の一つめを、人が喜捨や施し、他人への援助といった責任によって貧しい者たちの権利を守る事をしないこと、また二つめを物乞いすること、せびったりねだったりすること、と理解することも可能である。さらに一歩踏み出すなら、一つめの言葉によって負債を否定し、小切手や債権の代金を払わないこと、偽装破産など、全ての非合法手段によって獲得される不正な利益、そしてこれらの不正が改善されないこと、さらには不正への固執といったことがほのめかされている。二つめの言葉においては、単純な物乞いから、国や人々の感情を悪用する者についてまで、合法的・非合法的、ある種の強制の有無、偽証の要求、それから大小のマフィア組織など、様々の方法によって人々からお金を巻き上げる行為まで、有害な各種のお金の獲得の仕方がほのめかされているのである。
この、短く意味深いハディースにおいて、子の母や父に対する反抗、血縁の付き合いを無視し疎遠となること、母と父が子供たちに対して慈悲や慈愛を持たず、さらにはそれを否定することによって、無慈悲な、非人間的対応をすることから始まり、大きな家族でもあるこの社会の一部のエゴイストが私利私欲に走り、安全、信用、正義、公正的思考を揺さぶり、結果として社会の規律を揺るがすものになるということに到るまでが言及されている。さらには、これらと同等ではないにが、間に存在する共通性からハラームとされ、)、禁じられた事項である三つのことについても触れられている。それらは、陰口、不必要な多くの質問、それから物乞いを職業とすること、財産をあちこちで浪費することである。
陰口
陰口、噂話とは、この世においてもあの世においても何の役にもたたない不適切な会話、不必要なおしゃべりである。このような言葉は、無駄口であれ、禁じられた段階に抵触するような公表であれ、それを行なう者の社会的地位やその言葉の広まる範囲の程度によっては(新聞、雑誌、ラジオ、テレビで広められる場合など)、個人や集団が退廃し、意志や見通しを失った社会の病と言える。イスラームが罪と見なすこの有害な汚染は、全てこの陰口を発端とし、そこから発展する。だからこそアッラーの使徒ムハンマドは、一線上に並べられた三つの行為に、話すこと、話さないこと、という事項を加えられ、次のようにおっしゃられているのである。「アッラーと、審判の日を信じる者は、隣人を苦しめてはいけない。アッラーと審判の日を信じる者は、客に振る舞わなくてはならない。アッラーと審判の日を信じる者は、価値のあることを話すか、そうでなければ黙らなければいけない」
質問しすぎること
質問しすぎるということは、ふさわしくない質問をすること、あるいは必要がないのに物乞いをすること、または物乞いを職業のようにしてしまうこと、という二つの解釈ができる。二つとも悪いことであり、有害である。聖クルアーンや預言者ムハンマドのお言葉では、どうしようもない場合を除いて物乞いをすることが非難されている。それと同様に、常に質問ばかりすることも非難され、人は感覚や思考に有益であることを学ぼうとするべきだと方向付けがされている。
ただ、聖クルアーンでは好ましいとされるもの、気に入られないもの、と質問を二つに区別しているのを見ることができる。好ましいとされる質問の例として「彼ら(教友)は、如何に施すべきか、あなたに問うであろう...」言ってやるがいい。『あなた方が施してよいのは両親のため、近親、孤児、貧者と旅路にある者のためである』」(雌牛章2/215)という一節を示すことができる。気に入られない質問の例としては「彼らは聖霊についてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。『聖霊は主の命令によ(って来)る。(人々よ)あなた方の授かった知識は微少に過ぎない』」(夜の旅章17/85)という一節を示すことができよう。
質問をすること、しないこと、物乞いをすること、しないことは、やむをえない場合かどうかと言うこと、あるいは必要に迫られてのことかどうかということ、それらによって、行なうべきかどうかのラインの上下に分けられ、一部は義務に近いものとされ、一部はハラームとされ、一部は賞辞の対象となるのである。このことから、別々のことのように見えるこの二つの行為の共通性に沿って、共に分析し、解釈することがより適切であると私は考えた。
財産を使い浪費するということは、物質的にも精神的にもこの世的にもあの世的にも何ら役に立つこともなく、気に留めることもなしに、財産をあちこちで浪費してしまうこと、という意味である。これは、個人的かつ社会的な病である。一人の人が自分の財産をあってはならない形で失った場合、一見彼だけの害のように見えるが、実は社会の財産をも浪費しているのであり、その観点から財産の浪費は社会全体に関わる問題であり、社会全体が害を被っているのである。
今日重要性が示され、今後さらに重きを増すであろう経済や貯蓄といった事項を含む最後のテーマを終えるにあたって、再び言葉の王が選ばれ使われている言葉、そしてその使われている場所によって獲得されている深みや幅広さ、多くの意味を再認識して頂きたいと思う。
[1] Bukhari, Istikraz 19; Adab 6
- に作成されました。