あなたを見ているかのようにアッラーに従うこと
「イフサンとは、アッラーがあなたを見ているという意識の元、アッラーに従う(善行を行う)ことである。あなたはアッラーを見ることができなくても、アッラーはあなたをご覧になっているのである」[1]
信仰心がイスラームによって統一され、イスラームのイフサンの極みにおいて息づくことは、完全な信者である印である。信者は信仰心とイスラームの教えの中で、それらの最高地点に達し、その到達した最後の地点が必要とする行動をとることは善行であり、善が善を生むという基本から見て、アッラーのこの偉大さにふさわしい褒賞は「見たことも、聞いたことも、人の心に思い浮かんだこともない(ものを用意した)[2]」という驚くべき慈悲をおかけになることである。
そもそも善行の報酬はただ慈悲である。ただし、人間における善行とは、全てをアッラーのために行なうこと、徳、尊敬、畏怖といったものであり、アッラーの側からのは、御自身の偉大さや資産にふさわしい多くの恵みを与えられ、しもべの心を信仰心で整えられ、心に感じる神意によって彼の心を活気づかせ、その目から覆いを取り除かれ、物事の真実を教えられ、その口を無意味な事項から守られ、価値のある言葉を話させられ、その感覚を目覚めさせることである。
存在の覆いの後ろにある物に気付き始めるこの地点に到達した信者は、アッラーのお姿をあたかも直に見るかのようである。とはいえ、アッラーは、「視覚ではかれを捉えることはできない」(家畜章6/103)という事実の持ち主であられることから、アッラーによって見られていることで荘厳に喜ぶのだ。従順さ、徳、謙虚さなどが合わさることによって、アッラーを即完全な形で拝見するのではなく、一部だけ拝見できることはあたかも、誰かが断食をしている時間、断食しながらかつ断食明けの瞬間の喜びを心に感じているのと同様、この世という断食状態の最中にも「定められた日」に会うであろう喜びを感じられるようになる。その感覚を日々持ち続けるのである。
しもべは、その始まりも終わりもない永遠の王を拝見すること、拝見することによって味わう喜びを感じるのと同じくらい、見られ、知られること、つまり主への奉仕において主から点検され、観察されることからも喜びを感じる。それによって、自身が行ったことのうち最も些細なものに対してさえ、崇拝行為のもたらす深い喜びを感じるのである。
これらは預言者の言葉の理解に対するほんのわずかな歩み寄りである。ほんの数語の言葉の中に、何冊もの本にも収まりきらないような内容が含まれているのである。
波からほんの一滴を、太陽から一つの原子を、星たちが旋回する世界からのほんの少しの炎を見てみなさい。預言者の真実の輝かしい鏡であるこの輝かしいお言葉について、そこで述べられていることを代弁しようとすることは、おそらく言葉では言い尽くせないほど身の程知らずの仕事に違いない。我々もここで、そうと知りつつもこのような不敬なことをやってしまっているのである。私はアッラーが、我々の大胆さをお許しくださる事を望む。
預言者ムハンマドの輝かしいお言葉を全ての方面にわたって解説することは我々の力を超えたことであることは最初から示してきた。これが実現することを待ち望んでいるような状態であることをも明らかにしてきた。それでもやはり、勇気を出していくつかのハディースのいくつかの面を説明しようと試みたとしても、我々が説明しようとするのはハディースのその広い世界の、ほんの一部の輝かしいお言葉についてのみとなる。それらでさえ、預言者ムハンマドの意味深い言葉や表現の素晴らしさ、説明能力などによってのことである。それを大衆的な言葉で言い表すのである...。
アッラーが我々を許されること、我々の到らなさを寛容の眼差しでご覧になられることを私は願っている。
[1] Bukhari, Tafsir (31) 2
[2] Bukhari, Tawhid 35
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