要求される三つの権利 アッラーの権利、国家の権利、教えの権利
次のハディースが伝えられている。
「あなた方に、アッラーを畏れることを勧める。それから、あなた方の上に立つ者が黒い肌の奴隷であったとしても、かれの言うことを聞いて従うことをも勧める。あなた方のうち寿命のある者は、将来多くの暴動を見ることになるだろう。あなた方は私や正しい道を行くカリフたちの道を自らの道としなさい。そしてその道に、食いつくようにしてしっかりついて行きなさい。教えに新しく入ったもの(ビドア、正しい道から逸れた考え方、行為、ものなど)からは遠ざかっていなさい。教えに新しく入ったものは全て、誤りである」[1]
ここで預言者は、三つの権利について触れられている。一つめはアッラーの要求する権利であって、アッラーを畏れること(タクワー)である。二つめは国家を支配する者が要求であり、言うことを聞き従うことである。三つめは、教えの要求であり、預言者の慣行(スンナ)にしっかりと従うことである。
タクワーは、「守る」という語根からなる言葉である。ある意味それは、被創造物の摂理の基本に従い、アッラーの守護を受けることにより、被創造物の摂理に対して守られた事になるという意味になる。
あなた方が上に立つ者として選んだ者、つまりあなた方が決めてその位置に置いた者は、例え縮れた髪と黒い肌を持つ奴隷であったとしても、彼の言うことを聞き従うことは必要である。これは、民主主義の中の民主主義である。人々がどうしても到達できなかった、そしてこのまま行けば当分は到達することもないであろう、民主主義である。それが十四世紀も前から言及されていたのだ。ただし、預言者の手によってもたらされたこのシステムを民主主義ということも適当ではない。なぜなら、この世界における民主主義に対する見解は、決して預言者が言われた段階に達してはいないからである。最も近代的で発達していると見なされている国々においてさえ、このような見解や考えは根づいていない。今日アメリカで、黒人はなお第二階級とされている。いまだに、黒人を人間と認めていない国さえある。しかしイスラームでは、もし人々がそのような人を自分たちの上に立つ者として望み、その位置に据えたのであれば、彼に従うことが必要であることを何世紀も前に宣言していたのである。さらにここでは、カリフ(イスラーム共同体の指導者)になる道が全ての人に開かれているという点でも注意が惹かれている。民衆が望むのであれば、黒人であれその上に立つことはできる。その人がその位置に定められた上は、皆その人にに従わなければならない。重要なのは誰が選ばれるかではなく、大多数が誰を選ぶかということである。
「今日われは、あなた方のために、あなた方の宗教を完成した」(食卓章5/3より)という節によって、教えは完成された。もはや、語られるべき言葉は何も残っていないのである。教えにはもはや何も新しく付け足されることはない。教えに、本来そこにはないものが付け加えられることは、スンナが破壊されるということである。だから預言者ムハンマドと正しい道を歩んだカリフたちの道にしっかりと従うことが必要である。手ではなく、歯で食いつくのである。他の者に預言者ムハンマドのスンナについて、口を使って言葉で説明しなければならない。そして、スンナについて余計なことを言おうとする者に歯を出し(対抗し)彼らが無意味なことを言う機会を与えないようにしなければならない。
ここで我々が簡単に説明しようとしたことを、預言者から聞いて理解することができたなら、我々の想像の世界は何と豊かになっていたであろうか。彼のお言葉に開く葉は、我々に全く違った意味を教えたに違いない。我々も、その言葉に続けて「アッラーの使徒は正しい事を語られた」と言っていたことであろう。現実にそう言ってもいるが。
彼のお言葉は、さらに一歩進めば、聖クルアーンの奇跡の段階に到達するものである。
[1] Tirmidhi, Ilm 16; 参照:Ibn Maja, Muqaddimah 6; Ibn Hanbal, Musnad 4/126, 127
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