英雄視ではなく、誠実さを

英雄視ではなく、誠実さを

質問: 我々が精神的に啓発される上で非常に重要な位置を占めており、かつそれゆえに我々が心からの敬愛を寄せる精神的指導者について話すとき、気をつけるべき点について説明していただけませんか?

答え: 信仰する人々は自らの魂が受けた霊感を他の人の心にも注ぎ込もうと努めるとき、自らが属する集団についてある種の利点に言及する必要性が生じる場合があります。しかしこの時、他の集団の中で精神的成長を遂げた人々の感情に考慮することが不可欠です。経験したある種の美点について自分なりの理解や方法によって話したり書いたりすることを、他の人が行うのは構いません。しかし健全な信仰を持つ人であるならば決して、熱愛し敬愛する人々について熱狂的であったり誇張して表現することがあってはなりません。内容が直接的に宗教の真髄に関することではなく、二次的な事柄で細目に関わることであったとしても、それを述べることによって意見の不一致が生じる可能性があるのであれば、その事柄については話すのを避けるべく細心の配慮がなされるべきです。

例えばバハウッディーン・ナクシュバンディー師を忠誠を尽くして信奉するがゆえに、そのお方のためであれば命を千回捧げても惜しくはないという人がいるとします。しかしナクシュバンディー教団の中にはムジャッディディーヤ派やハーリディー派、クフラウィー派、ターギー派といった様々なグループが存在しており、それぞれに属する人々は互に競い合う気持ち(タナーフス)を持っているかもしれません。「タナーフス」とは実際は互いに競い合うことではなく、「私の歩むべき道において他の人に遅れを取らないように」という考えから美徳に励むことを意味します。つまりタナーフスとは、楽園に続く道において他の信仰者たちから離れないよう善行に勤しみ競い合う方法なのです。しかしこの感情をバランスよく持ち、保つことができず、ひいては誤って用いるようになれば、対立関係に取って代わられてしまうのです。さらにはそうしたライバル意識は妬みや不寛容に発展する可能性もあります。こうした感情は信仰者にとって非常に危険なものです。こうした理由から信仰する魂は、隣り合って存在する集団の中で歩む人々のあいだに妬みの感情を引き起こさないためにも、物事を、特定の集団に結びつけることは決してしてはならないのです。

最高の位階である誠実さ

本当に大切なのはある特定の人に従うことではなく、師がその人生をかけて芽吹かせようとしていた大義に対して誠実で確固たることです。なぜなら人は死ぬ運命にあっても大義は不朽であるからです。誠実であること以上に高い階級はありません。クルアーンの第4章婦人章69節に啓示されているように、(アッラーの大義に忠実で、行いや発言に裏表のない)誠実は人は、殉教者や正義の人に先立って挙げられているのです。アブー・バクル(彼にアッラーのご満悦あれ)は預言者に続いて偉大な人物とみなされていますが、預言者から「誠実な者」と呼ばれる名誉を賜っています。この点から理解できる真の教えは、我々が敬愛する人物についてマフディーだとかメシアだと誇張して言及することではなく、そうした先人が歩んだ道において可能な限り模範として従うことなのです。

同様に、ある特定の師に対して心からの、非常に大きな愛着、愛情を持っていると言いながら、その方を思い出しても深い悲しみに包まれなければ涙も流さず、夜中に100ラカートの礼拝に立ったあと手のひらを広げて「主よ、私を彼とともに蘇らせてください!」と祈ることをせず、そして何よりもその師の道において、また彼の崇高な理想の名において自らの所有物を犠牲にすることもない人は、己の発言に対して誠実であるとは言い難く思えます。しかしながらこれは人々が自己批判する際の基準であって、我々が他の人のことを不誠実呼ばわりすることは、すべきではないし、できることでもありません。

加えて、特定の師の美徳について褒め称え始めれば、無意識のうちに他の人々を刺激し、その師に対する多種多様の反論を引き起こしかねないことを知っておくべきです。さらに、あなたが誇張して表現した言葉や態度、振る舞いは、反宗教的なグループどころか、信仰を持つ人々の集団をも刺激するといえるでしょう。物事を特定の個人に狭めて限定するなら、信仰に勤しもうとしている人々の反感を買い、その人々が妬みという罪で破滅する原因を作り出してしまうのです。この点から再度述べたいのですが、重要なのはその個人ではなく、その人の大義に完全に忠実であることなのです。

誇張した表現は裏切りと同じくらい有害である

良い行いや功績を、ただ前面に立っている人々にのみ結びつけて考え、その人々のことを誇張して表現することが不当で不正な行為であることは歴然としています。成功や功績が見られるとしたら、それは全体のまとまりや一致の精神に対してアッラーが授けてくれたのです。よって、行われた奉仕のすべてを前面に立って活動している人々がやったとみなすことはアッラーに対しての非常に無礼な態度であり、かれに同位者を認めることにもなりかねないことです。また同時にアッラーのために奮闘する人々の努力に対して公正を欠くことになります。

ほかの人に先んじているように見えることについて、我々は兄弟姉妹であることを忘れるべきではありません。一部の人は早く来たためにアッラーの決定として上のランクに位置しているかもしれない、つまり、神の定める運命によってある人々はこの世に早く生まれたのかもしれないのです。誰も自分の誕生の時を決めることはできません。従って時間の点で他の人に先んじていることは絶対的な価値基準とはなりません。高貴な預言者ムハンマド(彼に祝福と平安がありますように)は、年少者に恵みをかけず、年長者を敬わない者は彼の仲間ではないと述べています。これに従い、我々は常に年長者を尊敬します。だからといってその方々に不適当な称号をつけたり、誇張した表現を用いながら他の人のそばでその方々を誉めそやしたりすることにはならないのです。フルスィー・ヤヒヤギルやタヒリー・ムトゥルといったベディウッザマン師の弟子たち(彼らが天国の住人となりますように)から信仰の真実を学んだ人々は、こうした有徳の人物たちを「クトゥブ」、すなわち精神的なヒエラルキーの軸というように見なすこともあるでしょう。しかしこれらの人々もしくはその師に対する気持ちを熱狂的に表現するなら、それはこの偉大な導師たちの大義に対する裏切りとなるでしょう。

我々の時代でも、世界中の様々な地域に移り住んで重要な功績を成し遂げた奉仕者たちがいるかもしれません。こうした人々について、ごく純粋に心からの考えからではあっても色々な精神的称号をつけて誉めそやすことは、奉仕する人々の活動全体に対する裏切りになりかねません。なぜならその功績を妬みに思う新たな反対勢力を結成させることを意味するからです。あなたの誠意に気づかない人々は公正さという則を越え、不適切な主張でもって言い返してくるかもしれません。他の人々の口をふさぐことはできませんが、自分の舌なら誇張や熱狂的な表現を慎ませることができるでしょう。この奉仕する人々の動きにおいて、将来的にこのことは非常に重要な問題となってくるのは確かです。故にこの事柄については、継続的に相談し話し合う必要を感じています。ある意味、この道で奉仕するにあたっての必要事項と見なすこともできるかもしれません。

自分自身を「無の中の無」と見なすこと

さらに加えて、他の道で奉仕に励む信仰者たちと一緒になるときは、それらの人々が尊敬を寄せる人々に言及して、美徳について話したり評価することが非常に重要となります。あなたが敬意を示せば、あなたも敬意でもって返されるでしょう。しかし狭い考えに陥って自らの道での愛にのみ言及するなら、他の人々を自らから遠ざけ、自らが属する集団に対する否定的な反応を引き起こしてしまうでしょう。自らが行く道を深い愛でもって大切にし、他の人にも愛してもらいたいと思うのであれば、それが効果的に成されるには己の属する集団の人々のみを強調するのがいいのか、それとも他の人々を高く評価して尊敬の念を抱くのがいいのかをよく考えるべきです。

まとめるなら、真実を守っていく道で異なる線上を歩いていたとしても、同じ信者同士、我々は貴重な財宝を違う方向から支えている者たちに喩えられます。「この宝物の一番重い部分を支えるのはしかじかの人物である」といった発言はライバル心を引き起こす可能性があり、賢明とは言えません。もしそれが真実であったとしたらアッラーが最高の報償を与えてくださるでしょう。しかし我々がこの世で身内の誰かについて誉めそやすのであれば、我々は神の業をある特定の人物に帰することによってアッラーに同位者を置くという罪を犯したことになるだけでなく、調和と一致の精神を破壊したことになるのです。事実、アッラーの唯一性における信仰を堅持しアッラーに同位者を並べる考えと闘うことを最優先に掲げる人々は、自らが闘うものをほんの少しでも引きずることは避けるべきです。全能のアッラーはすべてのものを存在させるお方です。クルアーンでも、我々と我々の行為を創造したのはアッラーであると宣言されています(整列者章37:96)。ゆえに「私が行った!私がやり遂げた!」というような考えは、ギリシャ哲学がムスリムに押し付けた忌まわしい言葉です。我々は己からこうした事柄を完全に取り除き、アッラーの唯一性に関する完全な理解を身につけなければなりません。

全能なるアッラーに向かい合ったときに自分自身をどう捉えるかの理解は、アッラーにすべてを帰するというアッラーの唯一性の信仰に到達するための重要な要素となります。ベディウッザマン師が「26番目の言葉」のまとめとして述べているように、こう言うべきです。「傲慢なわが自我よ、アッラーの宗教において奉仕したなどと鼻にかけるべきではない。アッラーはこの宗教を自堕落な人間によっても強められる、とハディースにあるではないか[1]。あなたは純粋ではない、だから自分自身をその自堕落な人間だと思いなさい」この例にあるように、彼は自分自身を無と捉え、我々が己をどのように捉えるべきかの教訓を示してくれているのです。同様に、「18番目の言葉」では自我にこう語りかけています。「『私はアッラーの顕現である。神聖なる美しさを受け取り反映する者が美しくなるのだ』などと言ってはいけない。その美しさはあなたの中で永遠性の形をとってはいない。だからあなたの中でそれはほんの短い時間しか反映されていないのだ」このような素晴らしい導師が自分自身を無と見なしているのなら、我々がなすべきは自分自身を「無の中の無」と見なすことなのです。

[1] サヒーフ・ブハーリー、ジハード182

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