ラマダーンと和らぐ心
質問:毎年、ラマダーン月は天からもたらされる静穏のように、また魂で感じ取られる確信のようにやってきます。そして信者の心を和らげ、溶かし、来世の色合いに染めます。我々の個人的・社会的生活という観点からこの祝福された月を最大限に生かすために何をお勧めされますか?
答え:ラマダーン月は、断食、イフタール(断食明けの食事)、サフール(断食前の食事)、タラーウィーフの礼拝といった魅力的な美しさを伴って我々の視野に現れます。そしてその月特有の神聖な雰囲気を醸し出します。様々な緊張関係が次々に起きたり、過剰な暴力や攻撃が行われたり、矛盾することが美徳と見なされたり、氷のように冷たい風が大衆の間に吹き荒れるような時でさえも、ラマダーンは魂を再生させ、健全な心や感情、思考を育成し、あらゆる種類の硬さや荒々しさを和らげることに影響を及ぼします。ムスリムはすでに、平安と優しさがはっきりと分かるほどに浸透するこの月に対して真剣な態度で尊敬を示しています。ですからどんな逆境にあっても我々が意志の力を正当に働かせ、この特別かつ際立った時の一区分に対してその恵みを心底信じながら我々自身の心を開こうとするなら、ひいては心から信仰し、畏怖や尊敬の念を持ってそこに向かい合うなら、我々も抱擁を受け恵みのシャワーを浴びることとなるでしょう。怒り、暴力、そして激情は止み、平和や和解の空気が浸透することでしょう。
料理の多種多様さではなく、来客の豊富さを
この考えを実践するには、信者(例えばあるアパートに住むムスリム家族)は隣人を、人生観の別に関わらず、数日前にお知らせした上でイフタールの食事に招待すべきでしょう。このようにして親切心や歓待の心の良い例を示すことができます。さらには付け加えて「ご親切にも我々の招待を受け入れてわざわざお越しくださいました。どうぞこれをお受け取りください」と言って用意しておいたプレゼントを渡すこともできるでしょう。可能であれば迎える側は来客の子どもにプレゼントを用意し、その無垢な子どもたちを喜ばせてあげることもできます。同様に、学校や大学で教師をしたり、何らかの組織で働くムスリムたちも、社会層の別に差を設けることなく誰に対しても食卓を開放することによって社会の友好関係に寄与することができるでしょう。
我々はこの祝福された月を実り豊かに活用し、来客のないイフタールのないようにしなければなりません。イフタールは料理の品数の多さではなく、来客の数の多さや多様性によって充実させるべきです。ご存知のように、預言者様はこう仰っています。「2人分の料理は3人十分であり、3人分の料理は4人に十分である」[1]。このことから豊富の月であるラマダーン中に迎える客の多さに心配する理由はないのです。このように行動することは社会の階層間に存在する巨大な不和を取り除き、偏見を乗り越えるための重要な外交手段なのです。力や治安部隊では対処できない数多くの問題がこの方法で解決できます。もしあなたがあらゆる人に対して誠実に心を開き、人間的な徳でもって人々の心を獲得し、あなたの心の中にすべての人が座ることのできる席を用意することができるなら、そして人々の心の力を頼りにすることができるなら、際限のない怨恨、憎しみ、怒り、流血、殺し合いといったものにも終止符を打つことができるでしょう。事実、人類の歴史上で脅迫によって問題を解決しトラブルを治めることができたことは一度もありません。それどころか脅迫は怨念に火をつけ人々をますます破壊へと向かわせるだけでしかありません。
トルコ語のことわざに「一杯のコーヒーにも40年の思い出」というものがあります。だとしたら私たちが招待するイフタールの食事の感情としての価値もインシャーアッラー(アッラーが望むなら)、40年続くことでしょう。ですから非常に美しい結果をもたらすこのような親切が実行に移されるべきです-おそらく、聖なるラマダーンの豊かさの秘密がそこには隠されています。そして断食やタラーウィーフの礼拝によって来世の報奨を得ることができるように、人々の心を獲得することによってもまた別の恵みを手に入れることができることでしょう。
心の中にこだまする天からの呼びかけ
世界のあらゆる場所で人類に奉仕しようと奮闘する信者たちは、人々の心を獲得する重要な機会としてラマダーンの価値を十分生かすことができるでしょう。イード・ル・アドハー(犠牲祭)で犠牲に捧げられた肉がアフリカからアジアまで世界中の様々な地域で貧しい人々に配布されていることを思い出してみてください。これによってアナトリアの人々の博愛精神と気前のよさが示され、犠牲の肉を介して人々の心をつかみ始める結果となっています。肉を受け取る人々にとっては、信頼感を呼び起こしてくれる国民が存在するのだと感じさせてくれる事柄なのです。同様に、ラマダーンキャンペーンとしてサフールやイフタールの扉をすべての人に開放し、多くの人々の心を獲得してアッラーのご満悦を求めることができるでしょう。特に海外でイフタールもしくはサフールに招かれた客人たちがこうした活動にどれだけ感化されることか、彼らの感想を聞いてみればその重要性をよりよく理解することができるでしょう。例えばイフタールの直前に流れるアザーンの予期せぬ声には独創性を感じ、非常に魅力的と捉えるようです。ですからムスリム文化の美しさや豊かさに引き合わせるためにもこうした機会を最善の方法で生かすことが必要となります。おそらくこうした活動は単に、客人たちの視点にイスラームに対する肯定的な見方を築くのみでしかないでしょう。しかし私が思うに、それだけでも決して過小評価すべきではありません。すべてに新鮮さを覚えた客人が別のところでイスラームの美しさに目覚め、精神的完成という地平に急上昇するということがあり得ないとも限りません。このことからも、こうした好ましい変化のためならば、ラマダーン月の期間中に一度イフタールに招待するだけでなく、一日のうちに何回も食卓に招いてもいいくらいの価値があります。
残念ながら我々の時代に生きる人々はイスラームの美しさを奪われています。そして真にムスリム足らしめる態度や振る舞いを目にすることができないでいるのです。ですから我々にとって最も重要な仕事は、家族の作り、家族同士の関係性、招待、優しさといった中に本物のイスラームを示すことです。ムスリムを怪物かのように捉えている人々がいるとしたら、このようなイメージを払拭するにはそうした人々と良い関係を築けるかどうかにかかっています。ですからムスリムの立場がどういったものであれ、理性と論理、判断、協議をもとに行動すべきであり、この問題を好ましいやり方で実現しようとすべきです。
どんな行いもラマダーン中の行いの埋め合わせとはならない
アッラーが我々の責任として課された崇拝行為は、我々のやり方次第によって異なる特質を帯び、審判の日における我々の証人となってくれます。我々がこの赦しの月をそれ相応に過ごすことができれば、我々の利益になるよう証言してくれ、おそらくはライヤーンの扉を通じて天国の最も高いレベルへと受け入れてくれることでしょう。ですからアッラーが我々に命じられた崇拝行為には謹んで取り組み、敬意を示して、最善の方法で全うするよう努力すべきです。
加えて信者は来世において、この世でなしたどの善行がもととなってそこでの恵みを享受することになったかを知ることになりますが、それによってその恵みの歓びは倍増することとなります。そこに現れた恵みを見て人々はこう言うでしょう。「アッラーに称えあれ!かれはまず善行を行う栄誉を授けてくださり、今は光栄にもその報奨を授けてくださっている」と。信者はそこで、体の諸器官を用いて行った善行の報奨を知ることとなるのです[2]。同様に、空腹や喉の渇きを抱えていること、タラーウィーフの礼拝における努力、サフールに起きだすワクワクした気持ち、他者に対する気前良い振る舞い、といったものの来世的な意味を認識し、それに相応しい歓喜を味わうのです。
崇拝行為の一部に関しては、外見的な形や状態を満たすことによってその深みを得ることができます。行いが異なった価値を持ち、人々が普段と違った風にアッラーへの近づきを得る月であるラマダーンになされる崇拝に関してこれは当てはまることです。別の時期に行う断食はラマダーン月のそれとは比べ物になりません。別の時期の夜間に行われる20ラカートの礼拝はタラーウィーフの礼拝の代わりとはなりません。サフールの報奨や、断食を解く前にじっと忍耐強く待つことへの報奨に関しても同じことが当てはまります。すなわち、どんな行いもラマダーン月になされる行いの代わりとはならないのです。良心でこの真実を深く感じる信者が、この月が去る時が訪れると非常な悲しみを感じ、次のラマダーンが訪れるのを待ち焦がれるのはこの理由からです。我々には分かりかねますが、もしかするとこの切望が人にラマダーン月に相当するまた別の報奨を獲得させてくれるのかもしれません。
[1] サヒーフ・ブハーリー、食べ物、11。サヒーフ・ムスリム、飲み物の書、179
[2] 日の出から日没まで飲食や夫婦生活を断つことに加え、ありとあらゆる悪から舌や耳、目、足、その他の器官を守ることからきている。
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