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「フェトゥフッラー・ギュレン師のローマ法王ベネディクト16世の、レーゲンスブルグ大学での講演におけるイスラ-ム教への発言に関しての声明」

トルコの著名なイスラーム学者フェトゥフッラー・ギュレン師は、ローマ法王ベネディクト16世の、レーゲンスブルグ大学での講演におけるイスラ-ム教への発言に関し、次の声明を発表した。 ギュレン師は、寛容性と理解が宗教者によって説かれるべきこの時代における法王のこの発言を、「この上ない不幸」と呼んだ。

以下は、ギュレン師の声明の全文である。

ベネディクト法王16世の配慮に欠けるこの発言は、最初の人アーダムからムハンマド(彼の上に平安あれ)に至るどの預言者のメッセージの中にも、そしてイスラームの聖人達のどの言葉の中にも見出すことのできないものである。アブラハムの宗教(三大宗教)の間に存在する不和、そしてそこから生じる論争は、宗教の違い、すなわち神から預言者へのメッセージの違いを源とするものではなく、むしろ、利己心を満たす為のツールとして宗教を利用する人々によって、時と共に宗教的な教義や信条がゆがめられてきていることから生じ、他者への憎悪や怒りによって膨張していくものである。

政治的なイデオロギーや、偏見や悪意がこめられた行為によって影響された上でイスラームに接する人々は、彼らの心に染み付いている暴力と憎悪の教えというイスラーム像から自らを解き放つことができずにいる。イスラームの教えを暴力と野蛮性のシステムだと見下すことは、無知と偏見から生じるものである。10億人以上のカトリック信者のリーダーが、このような、根拠を伴わない発言をすることは非常に嘆かわしい。これは重大な挑発や道徳的逸脱につながり得るものである。

イスラームのメッセージとは、旋律の美しい、平和へのメッセージであり、社会調和のしらべであり、寛容性と対話のそよぎである。無作法さ、粗雑さ、粗暴さ、憎悪、敵意は、イスラームを無知と偏見の目で見る人の嫌悪感なのだ。イスラームがしっかりと捉えられた心には、直接神の愛に由来する愛情、関心、そして生きる上での忍耐のみが存在するのだ。

一方、何世紀にもわたる戦いに疲弊してきた現代の私達の世界は、再度、新たな戦いの為のステージとなる兆候を示している。物質的富への、人間の恐ろしい欲望に直面しているのだ。寛容と理解が必要とされるこの時期における、法王のこの思慮に欠ける発言は、非常に不幸で、ダメージの大きなものである。

過去の活動、十字軍における役割について、ヴァチカンはその過去をわびる必要性を感じてきた。しかし、ミカエル8世パライオロゴスの時代の1ページのように思えたレーゲンスブルグ大におけるローマ法王の発言は、現在世界における法王のものとして全く適さないものであった。

私の切なる願いは、法王のこの振舞いが世界を新たな混乱の渦に巻き込まないように、ということである。彼の発言は重要な宗教であるイスラームの教えを侮辱するだけではなく、イスラームで最も敬愛される預言者についてもひどい中傷を行なったものであり、世界の全ムスリムを激しく怒らせたのだ。

10億人以上であるカトリック世界のリーダーによるこのような発言は、十字軍のような精神状態にある過激派カトリックのグループに励ましを与えるものとなるかもしれない。

私は、イスラーム教徒が法王からの謝罪を要求する、という形でこの不幸な出来事に反応することを切に願う。それは文明的マナーのもとで行なわれるべきであり、イスラーム教徒が平和と慈悲の預言者から教わったイスラームの原則がこれなのだ。まだ遠い過去にもなっていない、風刺画問題の時のような反応は避けられなければいけない。

法王の発言というこのエピソードは、今私達がますます寛容と理解を必要としているということを改めて私達に思い知らせるものである。より重要なことは、このグローバルな世界において、私たちはイデオロギー、文化、宗教、政治の違いを脇に起き、人類の為に神のメッセンジャーによってもたらされた素晴らしい規律、人間性にまさに適している規律の中で生きるよう、努力することなのだ。

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