気前のよさと謙虚さ
このテーマに入る前に、少しだけ振り返っておきたい。「アッラーの使徒の預言者としての偉大な知性」というテーマを見てきたが、話がここに及んだ機会にもう一度繰り返しておきたい。預言者としての知性とは、それに対して言葉でさえ慎まれるような、神意の方向性を持った預言者の論理、ということである。
全ての論理はある一定のところで行き詰まり得る。学問はある段階を超えられないことがある。しかし、上で述べたように預言者の知性は鳥のように羽ばたき、超えられないように見えるどんな頂上でも越える。この状態もまた、このお方が預言者であるという証拠となる。
そもそも我々が説明しようとしたほとんど全ての事項において、我々はこのお方が預言者であることを示そうとしてきたのである。預言者における忍耐を見れば、このお方がアッラーの使徒であることを認めないことは不可能である。そのお方の忍耐の周囲には「ムハンマドはアッラーの使徒である」という文字が書かれているのだ。そして全ての公平な者たちはそれを読み取っている。困難にこのように抵抗し、災いに対してこのような概念を持って立ち向かう人物は、ただアッラーの使徒でしかあり得ない。
預言者ムハンマドの慈悲深さを追跡して行くと、我々の目の前にはやはり、同じ真実が太陽のように輝かしくその顔を見せる。アッラーの使徒は、無限と言えるほど慈悲深いお方である。雨をもたらす雲よりも、恵みという点でさらに多くをもたらされ、より豊かであられる。要するに、預言者ムハンマドは他の何でもなく、ただこの世に恵みとして遣わされた方なのである。
預言者の恵みはただ人間に対するものとして留まらなかった。おそらく、この世界全てがそのお方の恵みから恩恵を受けた。今も受けているし、最後の審判の日までもこの恩恵を受け続けるであろう。
我々も、あたかも子を失った鳩のような興奮を覚える、この大きな恵みの持ち主を仰ぎ見ながら、その周囲にこのお方の預言者的特性を見出し、そしてそれを示そうと努めてきたのである。最後には、そのお方の優しい心について説明し、それがその恵みの一部でもあることを示そうと試みてみた。ただ、これらの全ては、このお方の預言者特有の知性のそれぞれ一面なのである。預言者としての知性は、それぞれの方向性を把握されることによって理解されたことになるのである。
気前のよさの一例
このお方の恵みの、つまりはそのお方の預言者としての知性のまた新たな一面は、気前のよさである。ここではそれについて明らかにしていきたい。
気前のよさとは、親切さ、接待やご馳走をする性質、というような意味である。アラブ人にとって気前のよさはとても重要であった。さらには、無明時代において彼らはそれによって自慢していたのである。私たちはお客にこれだけの羊を、これだけの牛を、これだけのラクダを振る舞ったなど。このように、客に対して示される気前のよさは、彼らにとって自慢の手段であり、この点において部族や集団は競い合うかのようであった。当然、これらは全て自分本位な計算の上に行なわれたのだ。
気前よさがこのような形で繁栄を迎えている頃、彼らのうちに最も気前のよいお方が現れたのだった。そのお方の気前のよさを見て、皆何も言えなくなった。この方は、全ての行いをただアッラーのために実行されていた。もし誰かに世界を丸ごと恵まれたとしても、それを誰にも、一言も告げられなかったのである。
預言者ムハンマドは御自分の気前のよさを詩に詠む詩人たちの表現を全く認めていなかった。彼らのその賞賛の言葉を最も気前のよいお方であるアッラーに委譲していたのである。
預言者ムハンマドは輝きを映し出す鏡のようで、アッラーの「気前のよい」という御名はそのお方の上にもその姿を見せていたのである。預言者ムハンマドは全てにおいてそうであるように、この点においてもアッラーの最上の代表者であられた。そして地上に、預言者ムハンマド以上になお気前よい者は存在しないのである。
預言者ムハンマドは気前よさへの道であり、気前よさは天国への道である。聖クルアーンで〔シュッフ〕と表現されている「けち」は、人を地獄へと導く道である。預言者ムハンマドを遠くから見た者でさえ、その特徴からすぐにそのお方と知り、あれはアッラーの使徒だと言った。我々の世紀の偉大な思想家はこのお方を「気前よさの案内人」と表現する。預言者ムハンマドは人間性、つまりは天国への道への唯一の案内人なのである。このお方に尋ねることなく天国には到達できない。預言者ムハンマドが勘定に加わられなければ、全ての勘定がめちゃめちゃになってしまう。預言者ムハンマドは、全ての人々の勘定に干渉する計算のしかけ仕掛けであり、また混乱した勘定を解き明かす存在でもあられるのだ、我々はこのお方を、創造主の御名からとって「最も気前のよいお方」と呼ぶ。なぜならこのお方はその気前よさにおいて人間の通常を超越された方であるからである。そして、それにおいて神の唯一の教え子なのである。
預言者ムハンマドは他の手段では入っていけなかった人々の心の中に、その気前よさで入っていかれた。あたかもその恵みが雲のように、蒸気となり、上昇し、それから気前よさとなってこの世界の上に降り注がれるかのようだった。それが降り注がれることによって全ての頑ななものが柔らかくされ、種が芽を出し、芽が伸びるための土壌が準備されるのである。つまり、優しい性質によって彼らの魂を制圧され、気前よさによってそれらの魂に玉座を設けられた。この二つを一緒に考えて検討しない限り、アッラーの使徒の重要なある一面を理解することはできないのである。
預言者ムハンマドは、望みさえすれば世界で最も金持ちな人であることもできた。そもそも預言者であることを宣言したばかりの頃、クライシュ族はその宣教を止めることを条件に、そういった提案をしていたのである[1]。その後も、全ての信者がアッラーの道のために差し出したものは、常に預言者の手を経ていたのだ。支配者たちから送られた贈り物には限りがないほどであった。しかし、それらの何であれ、自分のものにしてしまうことは考えられなかったのである。頭の片隅にそういった考えが浮かぶことすらなかった。
預言者ムハンマドは常に、御自分を旅人と見なされていた。そして、近く去ってしまうという考えのもと、生きられていた。預言者ムハンマドによればこの世界は、長い道のりの途上その陰に入ってちょっと休む、一本の木程度の存在だったのである。だから預言者ムハンマドはこの長い道のりで本当に重きを置くべきことのためにその心を忙しくさせる必要があった。さらに、人々に道を示すことも必要だった。いられるだけその木陰にいて、後はその道のりを続けられなければならなかったのだ[2]。目的と目標は大きなものだった。アッラーに到達することがそのお方の第一の目標であった。そして人々をも同じ目標に到達させることはそのお方の第一の任務であった。
このように、預言者はそれらのために自らを燃焼させておられたのである。このような状態にある人にとって、この世的な財産には何の重要性があるだろうか。当然、全くなかったのである。全くない以上、気に留める必要性もなかったのだ。
預言者ムハンマドは御自身の個人的な生活のために貧しさを選ばれた。これは、皆も貧しくあることを望まれたという意味ではない。ただ、誰であれ胃袋の虜となることは好ましいとされなかった。そもそもこの偉大な人のお陰でムスリムたちは非常に短期間で世界で最も豊かな民族となったのだ。彼らのうちで、喜捨や施しをするために貧しい人を見つけられないほどであった。一人当たりの収入はそれほど高水準だったのである。それにも関らず、なお教えのためにこの世に重きをおかない人々は、家に一日分の食料がありさえすれば、運ばれて来た新しいものがいかに適当であろうと受け取らないのであった。これは、自分よりも他の者を思う精神であり、魂の偉大さの問題である。他人を生かさせることに対する熱意である。生きることの快楽を放棄することの理想の形である。この感覚、感情で満ち溢れていない人にはこれらを理解することは不可能である。
ある断食開けの食卓で、聖アブー・バクルに一杯の冷たい水が差し出された。水を口元に持っていったところで彼は泣き始めた。そばにいた者が何があったのかと尋ねた。答えはこうであった。「ある時アッラーの使徒が、こういった一杯の冷たい水を飲んだ後泣かれた。それから、『その日あなた方は、(うつつを抜かしていた)享楽について、必ず問われるであろう』(蓄積章102/8)という節を読まれ、『この享楽からも勘定が問われるだろう』と言われた。これを思い出して、泣いたのだ」[3]
しかし本来、アブー・バクルも非常に質素でつつましい生活を送っていた。だから差し引かれる勘定はかなり少なかった。カリフ時代においても、長い期間他人の羊の乳絞りをして、家族の食費の確保に努めたのであった。かなり後になってから給料を受けとるようになったが、与えられたものを多過ぎると見なした。マディーナにおける最も貧しい人の暮らしぶりを自らの基準とした。それで、余剰金を壷の中に入れ、そこに貯め置いた。二年半のカリフ時代を通して、彼のお金はこのように貯め置かれた。死を迎える際には、彼以後にカリフになる者にその金を譲るという遺言を遺した。聖ウマルがカリフとなり、この壺を割らせたところ、中からは小銭ばかりが出てきた。そして手紙があった。この手紙は、新しいカリフに向けて次のように書かれていた。
「このお金は、私に与えられた給料からの余剰金である。私はマディーナの最も貧しい者を自らの基準とした。そして余った額をこの壺に入れた。だから、このお金は国庫のものであり、そこにしまわれなければならない」
聖ウマルは手紙を読んで泣き「あなたに続く者たちに、あなたはとても重い荷を遺した、アブー・バクルよ」と言った[4]。
アブー・バクルのこうした、この世に重きをおかない生き方は、預言者ムハンマドから学ばれたものであった。アッラーの使徒は、このような生き方が実際に可能であることを、自らの生き方によって彼や全ての教友に示されたのである。
考えてみてほしい。預言者ムハンマドは、全ての戦利品の五分の一に対する権利を、しかもアッラーの命令によって、持っていたのである。つまり、戦利品の五分の一は預言者が使うことができたのである。このお方がそれをお好きなように使われる権限はアッラーによって託されたものである。しかし聖ウマルはある日、預言者の部屋に行って、そこで声を上げて泣くことになるのである。預言者がなぜ泣いているのかと尋ねられて、この大男ウマルは答えた。
「アッラーの使徒よ!世界の皇帝や法皇はその富の中で泳いでいるほどなのに、あなたには下に敷く物さえありません。寝床は草で編んだものです。あなたの顔にはその跡が残っています。そもそもこの世はあなたのために創られたものであるのに」
アッラーの使徒は答えられた。
「ウマルよ、この世は彼らのもの、あの世が我々のものとなることを望まないのですか」[5]
アッラーの使徒は、これらを語る時、他にどうしようもない貧しい者が、絶望の中で語るような言葉としては語られていない。前にも触れたように、望みさえすればこのお方はこの世の最高の金持ちになることもできたのである。
ここで、参考にしてもらうためにフナインの戦いで彼の受け取り分とされた五分の一を示してみたいと思う。四万頭の羊、二万四千頭のラクダ、六千人の捕虜、四千オッカの銀であり、一オッカは四キロに相当するのである。[6]
他の戦いで獲得された戦利品や皇帝たちからの贈り物などを考えるなら、預言者が快適な生活を送るのを妨げるものは何もないのである。しかし、このお方は最も貧しい生き方をされていたのである。手に入った物は全て、人々に分け与えられたのだった。このお方はまさに気前のよいお方だったのである。これほどの気前のよい人は、ただアッラーの使徒しかあり得ない。
イブン・アッバースの言葉によると、特に断食月であるラマダンにおいて預言者ムハンマドは、その前にある全てを巻き込んで運んで行く風のように、気前よくあられた[7]。つまり、その手に残った最後の物まで、人々に分け与えられた。これは、魂と意志の問題である。預言者ムハンマドは自らのために生きられたのではなく、常に他の者たちのために生きられた。常に他人の幸福を考えられ、そのために生涯を通して御自身のことを考える機会がなかったほどであった。そもそも人々の幸福を見ることほど、このお方を喜ばせることはなかった。この他人に重きを置く精神において、御自身の家族や近い者は一番最後に位置するのであった。すなわち、預言者はまず、御自身に遠い者から世話をされ、一番最後に近い者たちの順番が来るのだった。戦利品が分配されるのであれば、バドルやウフドの戦いで殉死した者の家族がまず最初に対象とされた。そして預言者ムはしばしば、家族の者に「私は彼らに与えずには、あなた方に何も与えることはできない」と言われた。[8]
同時に預言者ムハンマドは人のうちで最も勇気あり、恐れを知らない方であられた。そう、こういった気高い特質を持たれる一方で、同時にこのお方は恐れを知らない方でもあられたのである。アッラーを除いて、決して何かを恐れられることはなかった。逆に、人々が恐れ、うずくまった時、このお方は獅子のように吠え、目をつぶることもなく、最も荒々しい敵の前に、しかもお一人で、進んで行かれるのであった[9]。このことについては後にも述べる。
預言者ムハンマドの優しい性格やその他の気高い感情の鍵でも開けられなかった多くの心が、この気前のよさという鍵で開けられたのであった。サワァン・ビン・ウマイヤもその一人である。
聖アナスは語っている。「アッラーの使徒は、フナインの戦いに出向かれる際、この人から武器を借りられた。フナインで獲得された戦利品を、サワァンは驚きながら、いかにも欲しそうに眺めていた。彼のこの様子は預言者ムハンマドの注意を引いた。「見て気にいった物をあなたの物としなさい」と言われた。それに加えて、さらに多くの物が彼に与えられた。サワァンはこの気前よさに非常に驚いた。その心がアッラーの使徒に対する憎悪や嫌悪感で満たされていたこの人物は、突然変わったのであった。そう、アッラーの使徒のこの気前よさは、彼を憎悪や嫌悪感から遠ざけ、預言者は彼にとって最も愛する存在となったのであった。サワァンを獲得することは当然、何千ものラクダや牛よりもさらに重要であった。アッラーの使徒も、最も重要であることを実行されたのである。結果、サワァンに示されたこの気前よさは、そのままでは終わらなかったのである。サワァンはすぐに彼の部族の元に駆けつけ、次のように言った。「すぐに行って、イスラームに入りなさい!ムハンマドは物を与えている。こんな風に物を与えられるのは、ただ貧しさを恐れず、アッラーを信頼する人のみなのだ!」[10]
アッラーの使徒は、何かを求められた時、それがあれば与え、なかった場合は約束をされた。時には、御自分が着ておられる1枚きりの服さえ求められ、そしてそれを決して躊躇することもなく、すぐに与えられたのであった。
一人のベドウィン(荒れ野に住む者)が来て、預言者ムハンマドからある物を求めた。アッラーの使徒はそれを与えられた。男は再び求めた。アッラーの使徒はやはり与えられた。三度めに彼が求めた時には与えるべき物がなかった。そのためアッラーの使徒は約束を与えられた。すなわち、それが手に入った最初の機会に、それを彼に与えるという約束である。この様子は聖ウマルをとても悲しませた。アッラーの使徒がこれほど不愉快な思いをさせられたことに、自らも不愉快な思いを味わったのであった。ひざまずき「求められ、あなたは与えられた。再度求められ、やはり与えられた。なおも求められ、約束を与えられた。あなた自身をこれほどの苦難に陥れないでください、アッラーの使徒よ」と言った。
ただ、この言葉は全く預言者のお気に召さなかった。眉を軽くひそめられたのを見たアブドゥッラー・ビン・フザーファトゥスサフミは立ち上がり「アッラーの使徒よ、お与えください。アッラーがあなたを哀れな状態で残されること、あなたへの恵みを中断されることなどは考えないでください」と言った。アッラーの使徒はしばらく沈黙されていた。それから次のように言われた。「そう、私はそのように命じられているのです」[11]
「彼は信仰告白以外の場所で決して『いいえ』と言われなかった
信仰告白でなかったとしたら、彼の『いいえ』の言葉は『はい』になっていただろう」
預言者ムハンマドはこの「はい」によって完成された方であられた。イスラーム法の範囲内で、預言者ムハンマドから求められた物は何であれすぐに認められ、与えられたのであった。この気前のよさには比べられる対象がなかった。唯一であった。これほどの気前よさは、ただ預言者であることで説明がつけられるのである。
それに、気前よさがアッラーへと近づける性格であるのならば、アッラーの使徒が気前よくないことがどうしてあり得ようか。このお方はアッラーに近いという点で、天使ジブリールをも凌いでおられたのである。
そもそも彼御自身も、次のように言われている。「気前のよい者はアッラーに、天国に、そして人々に近く、地獄には遠い。けちな者は、アッラーや天国、人々に遠く、地獄に近い」[12]
本によれば、天国にあるシドラの木は根が上で、枝が下にあるとされている。本当にそうであるのかは私にはわからない。しかし、アッラーの使徒は、天国から我々の頭上にこのように垂れ下がっているシドラの木のようであられるのだ。我々はこのことに関しては何の疑いも持っていない。その木に庇護を求め、その枝にすがる者は、鳩のように天国へ飛び立つのである。
このことについて、預言者ムハンマドは次のようにも述べておられる。「人々よ。アッラーはあなた方のために、教えとしてイスラームを選ばれたのです。だからあなた方も、イスラームと共にある友情を、気前よさや美しい徳によって完成させなさい」
イスラームは美徳と気前よさの軌道を進む。高い段階を獲得できるような手段を持っていなかったとしても、それでもあなた方は美徳によって頂点に達することができる。
気前よさというのは、徳の基本事項の一つである。「美徳と気前よさで、イスラームに奉仕してなさい。気前のよさは一本の木のようなものです。その根は天国に、その枝はこの世に垂れ下がっているのです。誰であれ、その木の下で生き、気前よく振る舞うなら、遅かれ早かれその枝につかまり、その木の根がある天国へ登りつくでしょう」[13]
けちであることが、バランスの崩れた状態であるのと同様に、、不必要なところにばら撒くことも、ある意味バランスの崩れた状態である。預言者の知性は、この気前よさをイスラームを高める目的で使った。このお方はその恵みと優しさで人々の心に入って行かれたのと同様、アッラーが御自身に恵まれたものを利用するという形でも、人々の心に入って行かれ、また決して開けられないと思われた心をも開かれたのだ。
聖カディージャは、イスラームに最も早く従った女性である。カディージャという名の意味も「早く生まれた者」である。彼女は預言者よりも15年早く生まれ、そしてイスラームにも誰よりも早く従った。この名前にふさわしい面を持ってもいた。マッカで最高の金持ちの一人であったこの女性は、全ての財産をアッラーの使徒のために費やしたのである。彼女が死んだ際には、死体を覆う布さえ買うお金がなかったほどであった。おそらくは預言者は借金をされ、その布を用意されたのである。この偉大な女性にとって最もふさわしい死の形、死んだ後の状態はこのようであったのだと私は思う。彼女はイスラームに入る前はその財産によって知られていた。その大変な財産は全て、教えのために使われた[14]。これも、正しさのまた別の例である。アッラーの使徒はその気前よさを見事な知性でもって使われたのであり、この気前よさが無駄になることは決してなかった。イスラームの力として戻ってきたのである。
彼の謙虚さ
預言者ムハンマドの謙虚さは、これもまた預言者特有の知性の別の一面である。そのお方の名声が広まり皆によって認められるようになってくるに従って、その謙虚さはさらに深みを増したのであった。謙虚さは、あたかもそのお方と共に生まれたかのようであった。そして生涯の終わりまで発達し続け、それは続いたのである。「誰であれ謙虚であれば、アッラーは彼を高められるであろう[15]」と語られ、またそれを最適な形で自ら体現されたのは、預言者ムハンマドなのである。
このお方は常に、御自分を普通の人と同じように見なされ、決して特別視されることはなかった。このお方は常にそれに基づいて生きられ、普通の人として存在することに非常な重きを置かれていた。
そう、この世的な地位や階級が人をつけあがらせたり、自らを忘れさせたりしてはいけないのである。人は皇帝でもあり得るし、地方の警備員でもあり得る。これらは、人であるという点で同じなのである。だから、人が負った任務の特質は、人を何か別の存在に変えてしまうわけではない。だから人は常に、基礎として、自らを普通の一人の人だと認識していなければならない。
民主主義と言われる制度がもし、一部の者が認めているようにこの世で最高のシステムなのであれば、イスラームは何世紀も前にこの最高の制度をその頂点に達していたのだ。ただ、我々は、イスラームが民主的な制度だという考え方には反対である。イスラームの制度の完全さを示す、社会的なある断面図を示してみたい。
聖アリーは、ユダヤ人と裁判のために法廷に行った際、法廷長であったシュライフは、座るべく彼に場所を示した。聖アリーは眉をひそめてそれを拒否した。なぜなら裁判になっている相手が立って待っている時に、彼が座ることはできないからであった。考えてみてほしい。その時アリーは大きな国家のカリフ、つまり長であったのだ。[16]
アッラーの使徒は、その人生にふさわしいお姿の人であった。礼拝所に初めて来た人々が、預言者が誰なのか分からなかったことがよくあった。ただ、教友たちの態度や預言者が話を始めたのを見て、アッラーの使徒であることに気が付くことができたのだった。
移住の際には、マディーナの人々でそれまで預言者を見たことがない人の多くは、聖アブー・バクルの手に口づけようと駆けつけた。つまり、彼をアッラーの使徒と考えたのだ。アブー・バクルが手にした扇で預言者に風を送り始めて、アッラーの使徒が誰であるかを理解したのだった。なぜならアッラーの使徒は、自らをアブー・バクルと区別するような振る舞いは何もされなかったのである[17]。
マッカを制圧して、街の中に入る時にはどれほど謙虚さを示されたか、よく知られていることである。乗りものの鞍の上で体を二つに折り曲げられ、ほとんどその頭が鞍に触れるほどであった。この幸運な預言者は、この幸運な都市にこのような謙虚な心で入ったのであった[18]。
妻アーイシャから伝えられるあるハディースは、我々に以下のように語っている。「アッラーの使徒は家で、普通の人のように振る舞われた。御自分の服に継ぎを当てられ、靴を直され、家の仕事についても妻たちを助けられた」[19]
このお方がこういったことをしている時にも、御自分の名は世界中に知られ、皆預言者について、あるいは預言者がもたらされた教えについて語り合っていたのである。預言者ムハンマドは時間を見事に調節され、これほどの重要な任務の傍ら、こういった仕事を行なう機会をも見つけられていたのであった。このお方は全てのよい性格において頂点に位置するにふさわしい方であった。そして事実そうなったのである。
人々の中におられた
立派な人の立派であることの印は、控えめさや謙虚さである。逆に、取るに足らない者の取るに足らない者であることの印は、自らを大きく見せようとすることである。アッラーの使徒は、人のうちで最も立派な方であられた。だから、謙虚さもそれにふさわしいものでったのである。
礼拝所の工事の際には、皆煉瓦を一つずつ運ぶのに対して預言者は二つ運ばれた[20]。堀を掘る際は、皆体に一つの石をくくりつけたが、そのお方は二つくくりつけられた[21]。そのお方のおそばに来た者が、その威厳から震える時「兄弟よ、怖がらないで。私もあなたのように、母親が乾いたパンを食べていた人間なのです」[22]と言われた。アッラーの使徒は疑いもなく、人のうちで最も謙遜されるお方であられた。
集まりや懇親会などで座っている時、偉大さの印のつもりで足を組んで座っている者たちの精神には、精神医学のどの分野に相当するものなのかは知らないが、重大な欠損があることは絶対に言える。アッラーの使徒は皆と同じように座られ、皆と同じように振る舞われた。預言者の全ての振る舞いは、ある一定の徳の範囲内で行なわれた。そのお方はその偉大さを常に顔を地に伏せ、平伏して祈ることで示されたのであった。
「誰であれ謙虚さを示せば、アッラーが彼を高められる。誰であれうぬぼれる者は、アッラーは彼の鼻を地面にこすりつけられる」[23]
控えめさ、謙虚さは人にとって二つの翼のようである。人を、この上なく気高い世界へとはばたかせるのである。アッラーの使徒はその謙虚さのお陰で越えられないものをも超えられ、永遠に人間を導かれるのだ。時と空間を超越するこの素晴らしいこのリーダーの前に、人々は気楽に来て、言うべきことも楽に言うことができたのだ。なぜならそのお方御自身が、気持ちのよい方であられたからである。
カドゥ・イヤーズは伝えている。「ある時、知能に問題を持つある女性がアッラーの使徒の腕を取り、引っ張った。そして『来て、私の家の仕事をしなさい』と言った。女性は預言者の腕を引き、預言者も後に付いて行かれた。教友たちも彼らの後に付いて行った。そして預言者ムハンマドは、普通に気楽な感じで女性が言った仕事を行なわれ、それから戻られた[24]」。その仕事は、おそらくは家の掃除をすることであり、おそらくは洗濯物を絞ることであった。仕事の種類は何であれ、アッラーの使徒はそれを実行されたのである。預言者はありのままのお方であり、このお方のこの振る舞いは決してそのお方の立場の悪さによるものではない。劣位性は、そのお方の夢にさえ入ることはできないのである。どうして可能であろうか。
預言者ムハンマドは憎悪や反逆に対して吠え掛かる獅子のようであられたのである。前にも述べたように、このお方は人のうちで最も勇気ある方であられた。聖アリーは言う。「戦いの最中、不安に襲われた時はアッラーの使徒の後ろに隠れ、彼に守られるのだった[25]」。そして、そのお方の雰囲気は周囲の者に安心と信頼を与えるのだった。だから、このような人がこういった形で振る舞ったのであれば、それは一重にそのお方の謙虚さのためである。
天性のもの
謙虚さが劣位を意味するものではないのと同様、尊大ぶることは威厳ではない。アッラーの使徒は、謙虚さにおいても確かな程度とバランスを保っておられた。そう、この性格も、我々に「ムハンマドはアッラーの使徒である」と言わしめるものである。
裁判官は、法廷においては真剣でなければならない。これは威厳である。しかし同じ態度を自分の家でもとっていれば、それは子供たちに対しての尊大さとなる。なぜなら人は、自分の家で、その家の住人の一人として振る舞うべきなのである。これらは全て聖クルアーンの決まりであり、それを最もよい形で実行されているのがアッラーの使徒である。それに続く者は全てそのお方の模倣である。
皆、預言者ムハンマドを最も偉大な人と見なし得る。しかし、そのお方は次のように言われているのである。
「決して誰も、自らの振る舞いだけで天国に入ることはできない」。『あなたもですか』と尋ねた者に対してもこう答えられた。「そう、私もそうである。もしアッラーがその御慈悲で包んでくださらなければ」[26]
預言者ムハンマドはこのような言葉をおっしゃられるほどに自然な、ありのままの方であられたのである。御自身を人々のうちの一人、一部と見なされ、振る舞いもその概念にふさわしいものであった。
ある日、聖ウマルが来て、アッラーの使徒からカアバの訪問(ウムラ)の許可を求めた。カアバの訪問のためにも、彼は許可を求めるのであった。彼らは規律正しい人々であり、全てにおいて、全ての問題においてアッラーの使徒の元に走り、そのお方に話した。家に適齢期の娘がある者は預言者を訪ね「アッラーの使徒よ、家に適齢期を迎えた娘がいるのです。結婚させようと望まれている誰かがいれば、御命令を」と言った。庭園を寄付しようと考えている者も預言者を訪ね、まず最初にそのお方に相談するのであった。モスクにこもって宗教行為をしようとする者、旅に出ようとする者、皆アッラーの使徒の元に来て、許可を求めるのだった。
このように、聖ウマルもカアバの訪問のために許可を求めに来た。預言者ムハンマドは、彼のこの望みを拒否しなかっただけでなく、聖ウマルを生涯の最後まで喜ばせ続けるある要求をされたのであった。「兄弟よ、あなたのお祈りに我々をも加えてください」。ウマルは後日、このことについて次のように語っている。「あの日、全世界が私の物になったとしても、あれほどには喜ばなかっただろう」[27]
謙虚さとしもべとしての意識
このお方における控えめさと謙虚さは、このお方が制圧された心を再度制圧するのであった。これによって預言者ムハンマドはその共同体の手を取られ、彼らを光の螺旋のうちに頂点へと高められるのである。ウマルは、最初の一撃でそもそも必要な高さを獲得していた。しかし、アッラーの使徒は、彼らを高いところへ、さらに高いところへと導かれることを望んでおられた。そしてそれを実行されたのである。遊牧民の集団から、教師、導師としての集団を生み出されたのである。このお方は人々を頂点に向かって高められる際、自らもまっすぐに上りつめられた。ただ、預言者ムハンマドの場合はその移動される距離に比例して、ただ控えめさと謙虚さが増していったのだった。自らに対しての観念は、しもべのうちの一人、という感情で満たされていた。
アブー・フライラから伝えられている。
「アッラーの使徒は、天使ジブリール(ガブリエル)と共に座って、語られていた。何日も、一口の食べ物さえも口にされていなかった。ジブリールは預言者ムハンマドの最も誠実な親友であった。
アッラーの使徒は、ジブリールに状況を語られた。『何日も、何も食べていないのです』。その時、雷のような音が聞こえた。一人の天使が降りて来るのであった。(それが、イスラーム学者のタベラニーによれば天使イスラーフィールである。)ジブリールは、預言者ムハンマドに、この天使がこの世に初めて降りて来たことを教えた。天使はアッラーからの挨拶を伝えた。そして、アッラーはお尋ねになっているのだった。「王様の預言者であることを望むか、しもべの預言者であることを望むか?」 アッラーの使徒は、アッラーからのこの提案に、ジブリールの方を見られた。ジブリールはアッラーの使徒に合図され、次のように言った。『アッラーの使徒よ、神に対して謙虚でありなさい』そして、アッラーの使徒も同じことを望まれた。『しもべの預言者になることを望みます』」[28]
アッラーの使徒はある段階まで、ジブリールから学ばれていた。さらには、昇天(ミーラージュ)において預言者はジブリールの神に対する近さに驚かれた。そしてそのことを、機会ある毎に繰り返し唱えられていた。そう、神をジブリールが知っているほどに知ることは不可能なのである。
そもそもアッラーも、聖クルアーンの言葉でその使徒に謙虚さを命じられている。「またあなたに従って信仰する者には、(愛の)翼を優しく下げてやりなさい」(詩人たち章26/215)といったような節が聖クルアーンにはいくつもある。
預言者ムハンマドがしもべであることを選択して、アッラーもこのお方がしもべであることをこのお方の王冠とされた。聖クルアーンは、多くのところでそのお方が預言者であることをしもべでもあることと共に語る。ムスリムたちも、信仰告白をする際には、このお方がアッラーのしもべであり、アッラーの使徒であることを証言する。このお方はまずアッラーのしもべでありそして使徒なのである。しもべであることは、預言者であることよりも先に来る。
皆、誰かのしもべであり得る。そしてそれぞれの荷を背中に背負っているのである。預言者ムハンマドは、後にも先にもただアッラーのしもべであられた。預言者はその生涯のどの時代においても、他人に首を垂れ、腰を折ったことはなかった。アッラーのしもべであることは、このお方の本来の特性なのである。
預言者ムハンマドのこの名誉に対して、モスクの尖塔からは日に五度、このお方がしもべであることが告げられ、全世界に対して、このお方が預言者であることより前にしもべであることが宣言されている。なぜなら、先に述べたように、このお方がしもべであることは、預言者であることより前に来るものであるからである。
預言者ムハンマドはしもべであられる。アッラーは聖クルアーンにおいてそのことを念頭に入れつつ、次のように述べられておられる。「アッラーのしもべ(ムハンマド)が、神に祈るために立った時、彼らはどっと押し寄せんばかりに、彼を取り巻いた」(アル・ジン章72/19)
この、どっと押し寄せて来たのがジンであれ、マッカの多神教徒たちであれ、我々にとって重要なのは、預言者ムハンマドが聖クルアーンで「アッラーのしもべ」という称号で呼ばれていることである。
聖クルアーンがアッラーの言葉であることを示し、このことについて疑いを持つ者にいどむ次の節では、やはり預言者ムハンマドにしもべと述べられている。
「もしあなたが、わがしもべ(ムハンマド)に下した啓示を疑うならば、それに類する一章でも作ってみなさい。もしあなたが正しければ、アッラー以外のあなた方の証人を呼んでみなさい。もしあなたができないならば、いや、できるはずもないのだが、それならば、人間と石を燃料とする地獄の業火を恐れなさい。それは不信心者のために用意されている」(雌牛章2/23~24)
さらに聖クルアーンは、預言者ムハンマドが頂点に達したことを述べる時、このお方がしもベであることをも明らかにしているのである。
「かれに栄光あれ。そのしもべ(ムハンマド)を、聖なるモスク(マッカにあるカアバ、マスジド・ハラーム)から、我が周囲を祝福した至遠のモスクに(エルサレムにあるマスジド・アクサ)に夜間旅をさせた。わが種々の印を彼に示すためである」(夜の旅章17/1)
絶交事件や奥様の聖カディージャカディージャや叔父のアブー・タリーブの死は、アッラーの使徒を人々の間で、守る者が誰もないという状態に陥れた。預言者の支えとなった支柱が一つ一つ折れていき、摑むべき枝が何も残らなくなった時、アッラーは、その完全さと共に、姿をお見せになったのである。偉大な思想家の表現によるなら、アッラーの使徒は、アッラーとお会いするために、空を超えた地点へ招かれ、そこで最も名誉ある客としてもてなしを受けたのである。
我々のここでの本来の目的は昇天の説明ではない。だから、その話題には入らないでおこう。ただ、注意を引く必要性から、この部分にやむを得ず触れなければならない。すなわち、次のようなことである。アッラーは、このような重要な奇跡を語られる際、預言者を、聖クルアーンにおける名前や新約聖書における名前、また旧約聖書における名前、つまりムハンマド、アハマド、アフイェドという名前でお呼びになっていない。このお方がしもべであることから、「かれのしもべ」〔アブディヒ〕とお呼びになっているのである。あたかも、預言者ムハンマドが「私はしもべになります」と言われたのに対して、アッラーもこのお方に次のようにおっしゃられているようである。「あなたがしもべとなったのであるから、私はしもべであることを最も価値ある、貴重な存在とした。地上で、最大の価値としてしもべであることを承認する。だから、私があなたの価値を述べようとする時は、あなたがしもべであることを視野に入れよう。ムスリムが信仰告白をする時には、あなたが預言者であることよりも先に、あなたがしもべであることを述べ、この世はその声で震えるだろう」。そう、この世の全てが、あなたがしもべであることを大声で叫ぶであろう。
[1] Ibn Hisham, Sirah 1/285
[2] Bukhari, Riqaq 3
[3] Muslim, Asribah,140; Abu Nuaym, Hilyah 1/30
[4] Taberi, Tarihu'l-Umem ve'l-Muluk 4/252
[5] Bukhari, Tafsir (66) 2; Muslim, Talaq 31
[6] Ibn Sa'd, Tabaqat 2/152
[7] Bukhari, 7
[8] Bukhari, Daavat 11; Abu Dawut, Adab 100; Ibn Hanbal, Musnad 1/136
[9] Muslim, Jihad 78
[10] Ibn Hisham, Sirah 4/135; Ibn Hajar, al-Isabah, 2/187; Ibn Hanbal, Musnad 6/465; Hindi, Kanz al-'Ummal 10/505; Muslim, Fada'il al-Sahabah 57
[11] Ibn Kathir, al-Bidayah 6/63
[12] Tirmidhi, Birr 40
[13] Hindi, Kanz al-'Ummal 6/571
[14] Ibn Kathir, al-Bidayah 3/158,159
[15] Hindi, Kanz al-'Ummal 3/113; Haithami, Majma' al-Zawa'id 10/325
[16] Ibn Kathir, al-Bidayah 8/5
[17] Ibn Hisam, Sirah 2/137
[18] Haithami, Majma' al-Zawa'id 6/169; Ibn Hisham, Sirah 4/47,48
[19] Tirmidhi, Semail 78; Ibn Hanbal, Musnad 6/256
[20] Ibn Hanbal, Musnad, 2/381; Ibn Hisham Sirah 2/141
[21] Bukhari, Riqaq 17
[22] Haithami, Majma' al-Zawa'id 9/20; Ibn Maja, At'imah 30
[23] Hindi, Kanz al-'Ummal, 3/113; Haithami, Majma' al-Zawa'id 10/325
[24] Qadi 'Iyad Ash-Shifa 1/131, 133
[25] Ibn Hanbal, Musnad 1/86
[26] Bukhari, Riqaq 18
[27] Ibn Maja, Manasik 5; Tirmidhi Daavat 109; Abu David, Witr 23
[28] Ibn Hanbal, Musnad 2/231, Haithami, Majma' al-Zawa'id 9/18
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