預言者ムハンマド以前のものには与えられない五つのもの

「私に、私以前の誰にも与えられなかった五つのものが与えられた。はるか遠くから、敵の心に恐れを感じさせることで、アッラーの援助を与えられた。地上は私のため、礼拝をする所、清らかなものとなされた。だから、私のウンマにおいて礼拝の時間になったことを知る者は皆、その場で礼拝をしなさい。戦利品は、私以前のものにはハラールとされていなかったにも関わらず私にはハラール(許されたもの)とされた。そして私にはお許しのためにとりなしをする権利も与えられた。私以前の預言者はただ自分の部族に遣わされた。私は人類全てに使徒として遣わされたのである」[1]

アッラーが、普遍的な意味ではそれぞれの人に、細かい意味ではそれぞれの共同体と預言者に、お与えになられた恵みは一つ一つ別々のものである。聖アーダムとその子に輝かしさとその名前に対する名誉、聖ヌーフ(ノア)には努力と決意の固さ、教えの命じるものに完全に従うこと、聖イブラーヒーム(アブラハム)には多くの預言者の祖となる名誉、アッラーへの愛、聖ムーサーには教育、規律、社会に関する知識、社会を規律正しく保つこと、聖イーサー(イエス)には人々との関わりにおける柔軟さ、耐える力、寛容さ、慈悲深さと愛情が、時と空間の王聖であるムハンマドとそのウンマに対しては過去の預言者に与えられたものに加えて、強い意志、深い考え、均衡、融合、統合する能力といった素晴らしさ、世界を統合する者となる特質が与えられた。そのため、イスラームの教えが他のものに比べると難しい部分があり、責任をも伴うものであることに対して、やさしく、気高く、恵み多く、より人間的なものであると言うことができるのである。これも、この方の全世界に通用する特質の一つと見なせる。

先に取り上げたハディースは、イスラームの預言者、そして彼の全世界に対してのメッセージをより効果的に、よりはっきりした形で取り上げ、我々の前に示すものである。

この世界的な教えと、全世界に対して呼びかけを名誉した宣教者と初期の代表者たちは、この教えを世界中にもたらし、自らの使命をはっきりと意識し、責任を自覚していた。全世界の啓蒙のために走り回っていた。アッラーの道において聖戦を行い、人を殺し、自らも死んでいったのである。天国に入り、アッラーの美を拝見するにふさわしい者となったのだった。心を捧げた布教のために人生を犠牲にし、また人生に重きを置くこともなかった。少なくとも、他の者の生きることに対する執着と同じ程度に、アッラーと出合うことを熱望し、それに身を焦がし、イスラームの世界支配の実現のために努めていたのである。このようにして、この世での命をあの世へとつながる軌道に沿って生きる者と戦うには、誰の力も及ばなかった。誤って、気が付かないで自らをそのような危険に陥れてしまった者たちも、距離を超越する恐怖によって震え、まだ道の最初で動きが麻痺し、そこから逃げだすのであった。さらには、アッラーに対する尊敬の念から、人に対しても愛情を持つような状態に到達していたのであれば。真の信仰を獲得した者にとって、『敵の心に恐れを感じさせることで、アッラーの援助を与える』ということは何と素晴らしい剣であり、塔であることか。

地上が、この教えとの結びつきによって礼拝所となること、望む者は望む場所で礼拝することができること、モスクや礼拝用マットがなくても宗教行為を実行することができることは、イスラームの教えが全世界のためのものであることの別の一面である。最後の審判の日まで継続するであろう聖戦の義務を、何ものにも惑わされたり捕らわれたりすることなく続けられるように、戦利品がハラールとされたこともまた別の一面であろう。あの世において預言者ムハンマドが「とりなしを行なう者」という称号によって、定められた範囲で、皆の手を取って定められた救いの段階まで到達させることができるということも、また別の一面である。そして、他の預言者たちは皆自らの部族に対してのみ遣わされたにも関わらず、預言者ムハンマドが全人類のために送られたということも、この事項の最も明らかな面である。

また、このハディースを問題を難しくすることなく、次のような項目に整理することも可能である。

(ア) 預言者、そしてもたらされるメッセージは神のお恵みであり、決して努力によって得られるものではない。

(イ) この五つの項目は、ただ預言者ムハンマドに与えられたものであり、他のどの預言者にも与えられなかった。

(ウ) 遠くから、敵の心に恐怖心を与えることは預言者に特有の状態の現れであり、その時代に生きた人にのみ与えられた神の贈り物である。

(エ) 宗教行為が、それが行なわれる場所、あるいは導師などには縛られていないということは、この教えが世界的なものである事実の一端を形成すると同時に、どこでも、いつでも、創造主と被創造物という関係の下、アッラーとのつながりを持つことが容易であることが説明されている。ここにおいて、イスラームのメッセージによりもたらされた、注目に値するある事実がある。すなわち、水と同様、土にも清める性質があるということである。ここで再び、イスラームにおける洗浄の大切さ、水の清める力と特質、土の変成させる特質について述べる必要もないかと思う。

(オ) 戦利品がハラーム(宗教上禁じられているもの)でなく、その事に関する禁止が時と関係ある試練であること、預言者ムハンマドの時期には、基本事項を形成する事項が消滅していることが述べられている。また戦利品の発生する最大の要因である聖戦が、審判の日まで続く行為である[2]ため、戦利品はその行為に自らを捧げる者にとっては生活の糧ともなり、また励ましの意味を持った褒賞ともなるということ、さらには敵の側を財力という面からも弱め、再起の可能性を与えないという面からも重要である。その重要性のために、義務ではないにしろ、褒められる行為とされているのである。同時に、聖クルアーンを伝える上での重要な基本である、全ての行為をアッラーのために行なうという点に対しても、妨げにはならないのである。

(カ) とりなすことは事実であるということ。アッラーのお許しにより、誰もがとりなすことが可能であるということ。ただし、ある意味で全ての者と関わりのある審判の日のとりなしは、預言者ムハンマドにのみ許されていること、それもまた預言者の特質の一つである。我々にとっても、名誉と喜びへの手立てとなるものである。

(キ) 以前の預言者たちが狭い範囲で、民族、部族に対して遣わされ、預言者たちの王が全人類のために、さらには全ての存在するものに対して使徒として遣わされたこと、従って他の預言者たちの使徒としての役割はその集団や部族が続く範囲内で有効であることに対し、預言者ムハンマドの場合はこの世界がある限り継続するものであるということをも示している。

ここで、表現のもつ力とそれが及ぶ範囲、健全さの観点から、社会のあり方について述べられた非常に重要ないくつかの言葉を紹介してみよう。

 


[1] Bukhari, Tayammum 1; Salah 56
[2] Haithami, Majma' al-Zawa'id 1/106

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