魂と死
永遠という感情や永遠への願望は、ただ、永遠というものへの候補でありえる魂にのみ特有のものである。有限であり、はかない存在である物質は、決して永遠という思想の源にはなりえない。細い電気線が、高圧電流を運ぶことができるだろうか? 現象界において、人の内なる鏡、そしてその思考に、永遠の生という願望を反映させ、このような感情を発酵させるような例は存在しないのであり「これから得た」といえるものはない。そうであるなら、有限である体の細胞、原子を超えたもう一つの世界を望み「私ははかない存在だ、私ははかない存在は求めない。私は無力であり、無力な存在は求めない。私は望む、無限の友を」 と語るのは、無限に焦がれ、永遠に心ひかれる、魂なのである。
1.死後、体の機能が停止するのは、魂が体を残して去ったためである
死者の目は開けられたままのこともある。しかしなぜその目はものを見ていないのだろうか? 肉体という兵舎の、細胞という兵士たちはなぜ散っていってしまったのか、なぜ作用しなくなったのか。答えは簡単である。司令官がそれを残して去ったからであり、魂という太陽が沈んだからであり、体という鳥かごから魂という鳥が解き放たれて無限の世界へ飛び立ったからであり、肉や骨といった家の一時的な客が荷物をまとめて鎖を断ち切って、旅を続けに行ったからである。そう、魂なのだ。驚くべきことである。肉体を見てほしい。六十年も生き続けてきたのに、その後は60日すらもつことなく、バクテリアに分解され、腐敗してしまう。長い年月一緒にいた私の目よ、なぜ、数分でさえも、私に、親友を、本を、花を、見せてくれないのだ。
2.死には方策は見出されない
死に、一時的な命の彩りが与えられることはある。つまり、細胞や、心臓の鼓動、脳の機能などによって死んだとされた人が、心臓マッサージや電気ショックによって、あるいは器官や体を凍結して保存することによって、あるいは発達した装置や発見によって、特効薬によって、生き返ったように見えることがある。しかしこれは、決して死んだ人が生き返ったというのではない。このような状態において、体の機能から見ると死んでいるかのように見えたとしても、魂が肉体とのつながりを保ち、体という発電体につながっていたコードの一部がまだ抜かれていために、これは生死の境ということができるのである。例えば、カセットで説教やクルアーンを聴くために装置にカセットを入れた場合、装置が作動していても音量が完全に絞られていた場合、まったく音が聞こえない。こういう場合あなたはこの装置が壊れていると考えるだろう。しかし実際にはそれは作動していて、音を出していないだけなのである。ちょうどこのように、預言者ムハンマドのその明確な通告にあるように「全ての病に方策が見出されるだろう」しかし、魂が肉体という衣装を完全に脱ぎ捨て、発電機につながれたコードがすべて抜かれ、体につながる鎖が完全に絶たれるという意味で「死に方策は見出されない」のである。この観点から、一部の人々が、死んだように見受けられる人が生き返ったと語るのは、装置が作動しているのに音量が消されているという以上の意味はなさないのである。
3.死者のために行われる気遣いや行為は、腐っていく肉体に向けられたものではない
この問題を法学的な面から捉えるなら、魂がその場を放棄した瞬間より後に段階を追って行われる、死者の洗浄からはじまる一連のイスラーム上の儀式がある。白い布で包んだり、運ばれたり、礼拝が行われたり、埋葬したりといった行為...。睡眠不足になり、走り回り、泣き、周囲に知らせること...。隣人や親戚たちが恐らくは初めて、こういった形で一堂に集うこと...。揺すぶらないように棺が運ばれること、前を通る際には起立が行われること...。これらは全て、腐って土に返っていく死体のために行われるのだろうか? クルアーンを読むこと、祈りを捧げること、後に残った遺品が思い出として取っておかれること、壁に掲げられた写真、思い出をたどってはため息がつかれること、これらの全てが、とっくに土になった細胞のためだろうか? 信仰を持たない人々の世界にすら、死者がミイラにされたり、記念碑に花束が置かれ、敬意が払われたり、ひざまずかれたりすること、革命の殉死者という呼ばれ方、これらは悪臭を放ち、溶けてしまった汚い残存物のためだろうか? 全ての生物をその細部まで決定付ける遺伝の暗号への作用の命令はどこからきているのだろうか? DNAやRNAと共に、細胞の活力や原子の活動を支え、整えるのは何であろうか? 物質的な要因は全て整っているにも関わらず、多くの研究の後で「細胞でさえ命のあるものがつくれない」と認められているのはどうしてだろうか? アッラーの存在、死後の生命、そしてそれを生きさせる魂、これらはお互いに結びついている真実ではないだろうか? 魂という真実は、復活や勘定が問われるという思想、残虐な者や抑圧者が、それぞれ罰や報いを受けるという信仰、社会生活において子供たちや若者や老人、病人や健康な人たち、要するに信仰を持つ全ての人にとっての一つのブレーキ、規律、均衡、そして幸福への要因ではないだろうか?
教えを否定する人に、例えば「魂や審判の日がなかった場合、信仰による私たちの損失、否定によるあなたの益とはいったい何であろうか? まだこの世界にいる時から信仰する人々が得ている徳、人間性、幸福が、あらかじめ与えられる益であるとすれば、あなたのその悲痛な有様を何というべきか。その上でもし、最後の審判があるのであれば、私たちの状況とあなたの結末はどうなることか」というのは、私たちの正当な権利ではないだろうか?
4.死後、魂がたどる経過
人と動物はその創造、実態、特徴から異なっているのと同様、これらの死もまた、異なったものである。人間の魂は天使イズラーイール(アズラーイール)自身、もしくはその補助者が持ち去っていくが、動物たちの魂は任務を負った天使ではなくアッラー御自身がお取りになる。
預言者たちには天使イズラーイール自身が訪れる。そして多くの場合、訪れたことを知らせる。例えば預言者アーダム、ムーサーの場合そのようになった。さらに、信頼できるハディースによると、その魂を取り去る事に関して預言者ムハンマドから許可を求めたとも伝えられている。イズラーイール自身が訪れない場合は、魂の段階に応じ、イズラーイールの補助者によって、もしくはイズラーイール自身の監視によって魂が取り去られる。
それぞれの人に、それぞれに異なる天使が遣わされるのは、敬意と栄誉のためである。各人に、魂を持ち去る天使が存在する。なぜなら人は、被造物のうち最も名誉を与えられ、最も完成された存在だからである。人という奇跡が、こういうあり方の必要性を生じさせる。一人の人間は、他の何らかの生物の種の全てに等しいと見なされる。そう、人は一つの種であり、同時に全種に値する。そしてそれぞれの人は、自らの運命と共に生きる。あるハディースで述べられたように、人には固有の記録簿と三百六十の天使が存在する。人は、与えられているあらゆる栄誉に加えて、永遠というものへの候補となりえる崇高な魂をも持つ。だから、彼の前に伸びる永遠の生の名において死ぬのだ。この特別な性質、立場の要するところとして、その魂をもイズラーイールあるいは任務を負った天使によって持ち去られるのである。
動物に関しては、先にも述べたように、単純で全般的な判定が下され、それらの魂はアッラーによって取り去られる。なぜなら動物は人間のように責任を負ってはおらず、また知恵や意識、認識、そして未来と関わる魂の持ち主ではないからである。動物たちはあの世においても永遠の生を生きることはできない。そして、アッラーの公正さの顕示として一時的に復活させられるとしても、天国や地獄は動物たちにとってそれぞれに個別のテーマではない。ただ、洞窟に隠れた信徒を救った犬(洞窟章18/22)や、預言者サーリフのラクダ(フード章11/61~63)、預言者スライマーンのヤツガシラ、預言者ムハンマドが説教するとき支えるもたれられたナツメヤシの枝、といったようなもののみが天国に入り、そこで自らの種を代表するのである。
人と動物の間の違いは、次のようなものに似ているだろう。ある国で、国家の治安の撹乱や革命を企画した人々のうち、高位にある者、高い階級を持つ者は軍事法廷にかけられ死刑判決を受けるが、階級のない兵士たちはただ、武器を没収されるだけである。動物や植物たちにもこのように単純で全般的な判定が下される。しかし人間はその栄誉、地位、そして責任に応じてそれぞれが尋問を受け、裁かれるのだ。
5.魂はどのように取られるのか
人間は限られた意志の力で、天使の業を把握することができない。天使たちは、霊的な存在であるため、時空の制限を受けず、同時に何千もの地点で姿を見せることができる。これは、何百もの鏡がある部屋に入った人が、同時に何百もの鏡に出現するようなものとなる。アズラーイールが同時に複数の魂を取り去るのも、このようなことである。
人を真の意味で死亡させるのは、アッラーご自身であられる。しかし、死者の顔の外見的醜さをアッラーに結びつけ、アッラーに対し不適切な考えを抱くようにならないよう、アッラーは、イズラーイールをその御業の覆いとされたのである。
死をもたらす何らかの要因(病気や災害や事故など)が現れると、人がすぐにイズラーイールと結びつきを持つことになる。だからイズラーイールがその人を探す必要はない。例えば、様々な周波数で発信を行なう一つの装置があったとしよう。そしてこの装置が一つのスイッチで、千の周波数で発信を開始すれば、同時に多くの装置を停止させることができる。それぞれが一定の周波数で一致して、同時に交信するので、その発信は容易に実行される。アッラーの御業においても、このような働きと、それによってもたらされる簡明さ、容易さが存在する。一つの命令によって何千もの兵士が行動すること、太陽が、同時に何千ものガラス片に、そして小さな泡に、七つの色や明るさ、熱とともにその姿を現すことなどのように、死の周波数が一致している人々は、イズラーイールが触れることによって魂を譲渡する。あたかも、一つの主電源スイッチを切ることによって、同時に何百ものシャンデリアやランプが消えるように...。
6.天使は死の瞬間にどのように見られるのか
全ての人に、固有の段階、到達レベルがある。その善悪によって獲得された段階に応じて、イズラーイールともその段階で出会うことになる。よい人間であれば、死の瞬間に多くの天使たちが笑みをたたえた顔、希望を与える様子でその人を取り囲む。それからその天使たちの長であるイズラーイールが現れ、アッラーの挨拶を伝え、その人自身にその魂が取られていくことを教える。よい魂はよい状態で取られる。ブハーリーとムスリム両方でも伝承されるハディースによれば、イズラーイールはその補助者と共にその人の生きた人生に応じた形で現れる。例えば、クルアーンを読む人々にはそれに応じた形で、聖戦を行なった人々の魂にもそれに応じた形で、それ以外の人々にもそれぞれ異なる形で現れ、その魂を取る。一言でいうなら、よい人々にはイズラーイールとその補助者たちもよい形で現れ、よく振舞うのである。
心がけの悪い人の死の時には天使たちは好ましくなく、恐ろしく、恐怖におののかせるような様相で現れる。その様子にその人は度肝が抜かれる。イズラーイールは恐ろしげな様子で現れ、その人のそばに座り、彼に対してその内面世界にふさわしい形で振舞うのである。
7.魂は肉体からどのように離れるのか
死の時に感じることは人によってそれぞれ異なる。そして誰も、その瞬間に感じたことを伝えることはできずにいる。だから、誰が何を感じたかということを知ることはできなかった。それでも、一般的ないくつかの事項を語ることはできる。
よい形で生きた者はよいことを感じ、悪い形で生きた者もそれにふさわしく感じる。よい生を生きた者は微笑みながら、素敵なものを目にしながら、この世を去る。魂がその人から去って行く時、それが後に残した体が微笑んでいるのだ。割礼を受ける子供が、口に甘いものを入れてもらい、そのおかげでその処置に気が付かずにいるように、預言者や殉教者の魂が体を離れる時には天国の扉が開かれ、預言者ムハンマドの表現をお借りするなら、彼らの魂は壷から水が流れるように、肉体を離れる。魂が離れる時には、その肉体も、行くことになる場所を目にし、笑みを浮かべている。よい人の死は、怖がられるようなものではなく、逆に非常に心地よいものなのである。
ウフドの戦いで殉教したアブドゥラー・イブン・アムルについて、その息子のジャービルに預言者ムハンマドは次のように語られた。
「アッラーがあなたの父をどのように迎えられたか、あなたは知っているだろうか? それはかつて見られたことも、聞かれたことも、人間が想像をなしえたこともない。どのように対応なさったか、説明できないほどなのだ。あなたの父は『主よ、私をもう一度生きていた世界に戻らせてください。この心地よい死の喜びを、後に残った人々にも伝えたいのです』といった。アッラーは、『もはや後に戻ることはない。それは一度きりのものであり、すでに終わったのだ。しかしわれは、あなたの状態をかれらに伝えよう』とおっしゃられた」
それから、次の章句が啓示されたのである。『アッラーの道のために殺害された者を、死んだと思ってはならない。いや、かれらは主の御許で扶養されて生きている』(イムラーン家章3/169)これは、アッラーの道のために殉教した全ての人のためにとって絶対的な一つの吉報である。
預言者ムハンマドは、その死の床で、意識を取り戻される度に「礼拝、礼拝...!」と言っておられた。第二代カリフのウマルも同じように「礼拝、礼拝...!」と言いながら世を去った。イスラーム軍の諸軍を長く努めたハリド・ビン・ワリドも、死の瞬間に「馬を、剣を、持ってきてほしい。最後にもう一度見たい」とうめいていた。ハンザラの、サアド・ビン・ムアズの死には、空が泣き、動き、天使たちがその死体の洗浄と弔いの準備を行なっていた。第三代カリフのウスマーンはクルアーンを読みながら、アリーはモスクに入ろうとしたところで殉死した。これとは逆に、多くの者が酒のテーブルで、賭けごとの最中に、あるいは売春宿で最後の息を引き取った。そう、人々は生きてきたとおりの形で、死んでいったのである。
ファラオのように残虐な魂は、とげに引っかかった絹のように肉体から引き離される。魂が離れる際には、見苦しく、しかめられた顔が残される。天使たちはこのような魂を厳しい形で取り去る。とげに引っかかった綿が引き剥がされるように、非常に困難な形で、かれらの生は尽きるのである。
8.動物たちは死の際に何を感じるのか
動物たちは人間のように責任が問われる存在ではないため、魂が離れる時、おそらく痛みは感じない。それらがもがく様子は、私たちが知らない、私たちが味わったことのない、まったく異なるある状態を示しているのだ。あのもがきに、もしかしたらそれらの世界に特有の、一種の快感を感じているのかもしれない。話がここにきたので、ここで欧米諸国における一つの見方、その適用について述べたい。
ご存知のように、欧米人はムスリムのように動物を刃物で切るという形では屠らない。電気ショックを与えたり、首を刺したりする。こういった振る舞いは、屠殺という点でさえもムスリムの様ではありたくないという意地の表れなのだろうか、私たちには理解できない。彼ら自身は次のように自分たちを擁護する。「あなた方が屠る際、動物たちは足をばたつかせて苦しんでいる。私たちは動物たちが苦痛を感じないようにと、こういうやり方で屠っているのだ」。しかし彼らは、ある真実に気付いていない。まず、血管が切られた動物が暴れることによって、学者たちが害があると認めている血液が、見事に体から抜ける。電気ショックで屠られた動物たちの体からは血が抜けず、肉にも浸透し、それを食べる人にも害を与える。我々において、血液を口にすること、血に汚された服で礼拝を行なうことは禁止されている。一九八九年にイギリスで、内臓の売買が禁止されたように、いつか彼らもこの問題を理解し、私たちのやり方を採用する日がくるだろう。
次に彼らは「そうやって切ることで、動物が死ぬのに時間がかかる。動物がもがき、十五分も二十分もそれを苦しませることになる」という。動物が苦しんでいることがどうしてわかるのだろうか? 足をばたばたさせているからといって、必ずしも苦しんでいるということにはならない。屠られた動物に見られる動きは、神経の反応によるものでもありえる。動物が痛みを味わっていることを、動物でない者がどうして知ることができるだろう。全てが目に見えるままに成り立っているとでもいうのだろうか、動物やその命に関して、動物になったこともないのに決め付けることがどうしてできるのだろうか?
三つ目として、全ての被造物に、常にさらに上の段階に上がりたいという望みがある。植物は「動物や人間たちが我々を食べ、我々の生の段階が上がるように」と、あたかも競い合っているようである。動物たちも人間の体に移り、その生を、意識を持ち、永遠というものへの候補である存在のうちで継続させようと望むかのように競い合っている。そう、動物には知能や意識、理解力はないが、彼らもまた、偉大なる法の擁護者の法則に従うのである。だから動物たちはそのままにしておいてほしい、人間へ客となりに行くのだ。その動きを続けさせてやろう。
四つ目として、おそらく動物たちの世界に特有の一種の喜びの表現としてあのようにばたばたしているのかも知れない。ここで、次の点にも触れておきたい。ムスリムはアッラーに帰依した人々として、全てをアッラーの道のために犠牲にし殉教もする。殉教するということは、一種の犠牲になるということである。先にも述べたように、殉教者たちは犠牲になることから他にはない喜びを感じる。しかし外から見る限り、彼らもまた、もがき苦しんでいるように見える。でも、実際にはそうではないのだ。天使の手によって運ばれ、預言者イスマーイールのようなアッラーの恵み多いしもべ、預言者、代表者である人の代わりに犠牲になるように優遇された動物(聖クルアーン、整列者(アッ・サーッファート)章37/107)、―表現が適当であれば―動物界の殉教者に対して「いや、苦痛を感じているのではない。おそらくそれ自身に特有の一種の喜びを感じている」と私たちがいうなれば、おそらく真実にさらに近づいたことになる。さらにいえば、私たちはこれを崇拝行為として行なっているのである。
9.死後、魂はどうなるのか
死後、魂はアッラーの御前まで昇る。預言者ムハンマドのなされた表現によれば、魂が肉体を離れると天使たちがそれをサテンの布で包み、天使の高い位階へと連れていく。それらが通る全ての地点において、各行程、それぞれの段階で「これはなんときれいな魂だろう。これは誰の魂なのですか」と尋ねられる。天使たちもその人が地上において知られていた最上の名称や称号を紹介し「これは礼拝を行ない、教えのために数々の困難に耐えたこれこれという人の魂です」と答える。そうすると皆が丁寧に迎える。最後に、天空を超えて、アッラーの玉座の御前に至る。アッラーはよい形で承認され「この魂を再度墓に連れ戻しなさい。問いに備えるためにその死体の墓に戻しなさい」と天使たちに命じる。墓で「ムンカル」と「ナキール」という天使は「あなたの神は誰か?あなたの預言者は誰か? あなたの宗教は何か?」という問うのである。
悪い人の魂は、どこでもよく扱われない。全ての段階において憎悪のうちに扱われる。アッラーの玉座の御前からも、逆さまに投げ出される。天使ムンカルとナキールの問いに答えられるような状態ではなくなり、返事ができない。なぜなら彼はこの世界において不必要なことに時間を費やし、価値ある行ないをとらなかったからである。このようにして、悪い人の魂は終末の日まで様々な罰を受ける。
墓場では問答が行われる。抑圧がある。しかし真の裁きは、最後の審判の日にある。ハディースの表現を借りるなら、墓場は苦痛を与え、抑圧する。善行と悪行の勘定は、復活の後で行われる。そう、秤が備えられ、行ないを記した記録が広げられ、「スィラート」と呼ばれる火獄をまたいでかけられた鋭い橋を通らされ、それから、天国もしくは地獄への、喜ばしい、もしくは恐ろしい移動が行われる。(この問題、かつ類似する問題の詳細については非常に多くの本が書かれているのと同様に、ハディースの各書においても十分な知識が記されている。)
墓場は同時に、この世で清められなかった一部の罪の清算が行われ、清められる場でもある。真の審判の日に残される大きな罪と共にある、重大性のない罪やけがれの一部が、アッラーによってこの清めの場で取り除かれるか、あるいは大きな罪の裁きと罰が後で設けらる大きな裁きの場に残されるのだ。ちょうど、この世の生活において、小さな犯罪などは交番での数日の苦痛によって済まされるように、墓場においても小さな罪や過ちが清算され、終えられる。[i]それによって負うべき責めを負ったことになり、先に持ち越さなかったことになるのである。
真実に到達した人々は、クルアーンやスンナ(預言者の慣行や言葉)を根拠として次のように語っている。大きな罪と並んで小さな罪がある人々の一部の過ちは、この世界における苦痛や災い、病などによって清められる。また一部は死の瞬間に清められる。残りの罪も、偉大なる裁きに持ち越されないように、そこで慌てふためくことのないように、と墓場で三度目の清めを受ける。墓場で清められないほどに大きいけがれや罪は、復活の場で、秤で、スィラートで、それでもだめなようなら地獄で清められるのである。アッラーがここで我々に、清らかな生を送らせてくださいますように、私たちのけがれがその場まで持ち越されることがありませんように。
そう、罪や過ちのうち小さなものが清められるということにおいて、墓場の苦痛や抑圧は大きな役割を持っているのだ。苦い薬である。しかし、その後には天国という健康が待っているのだ。
墓場の与える苦痛というものを、サアド・ビン・ムアズのような高い段階にある人においても見ることができる。信頼できるハディースによれば、ムアズが墓場に置かれた時預言者ムハンマドは「ああ、墓がサアド・ビン・ムアズまでも苦しませるのであれば!」と言われた。つまり、墓場が苦しませない人はいないのである。サアドは、その死にジブリールが訪れ「サアドの死に天空が振動しました、アッラーの使徒よ」[ii]と言ったほどの人物である。その葬儀に加わられた預言者ムハンマドは、つま先立って歩かれ、その訳を聞かれると次のように答えられた。「弔いのために非常に多くの天使たちが来ているのだ」[iii]
サアドとはそういう人であった。そして墓場の苦痛はこういうものなのだ。
10.霊的世界において魂は何を行なうのか
魂は、亡骸が置かれた墓場に、精神的な結びつきと、コードにつながれた一種の耳を残し、魂にとって一種の待合室である、中間の世界へ行く。墓場を通過すると、魂たちはある光景、状態に対面する。この世界における行動が、その世界において一定の形をもって魂たちの前に現れるのである。彼らが行なった礼拝、読んだクルアーン、アッラーの道における奉仕、唱念が、そこにおいて魂たちに安らぎと平安と与える友人、親友となって見出される。天国の窓が開かれる。彼らの前にこの上なく素晴らしい永遠の風景、光景が示される。そして魂たちは天国を眺め続ける。この世界で醜い生き方をした者の魂たちの前に現れる光景は醜いものとなり、彼らには地獄が示される。前者は終末の日が一日でも早く訪れるよう願い、後者はそんな日が来ないことを願うのである。
終末が訪れた後、この霊的世界にどれ位留まるのかということは、ただアッラーのみがご存知である。
霊的世界に移った魂たちは、我々の様子を感じ取ることができる。しかし我々には彼らを見聞きすることはできない。アッラーが望まれなければ彼らも感じることができないのと同様、アッラーが望まれさえすればこの世界にいる者にも感じさせられることが可能となる。墓場の様子を知る聖人たちがいる。預言者ムハンマドは、バドルの戦いの後、不信心者の中で偉い者の亡骸が投げ込まれた井戸に来られ「アッラーがあなた方に約束されたものを見ましたか?」とおっしゃられた。
崇高で偉大な魂たちの中には、霊的世界にいる魂と接触するできる者もいる。ムヒーディン・イブン・アラービー(一一六五~一二四〇)は、崇高な魂たちとしばしば接触をもったことを語っている。イマーム・スユーティは、預言者ムハンマドと、半覚醒状態の時に七十回お会いしたことを、アフメッド・ルファーイ師も、預言者ムハンマドの魂とお会いしたことを語っている。イマーム・ブハーリーも、清めを行ない礼拝をした後、伝承が正しいかどうかアッラーの使徒にお伺がいしたことが伝えられている。
夢という形でお会いすることはそもそも可能である。悪い魂たちに関していうなら、この世界の善良な者たちがなぜ彼らと接触する必要があろうか。
ある見方によれば、終末の日まで彼らの足には鎖がかけられており、魂たちは二度とこの世に戻ることができない。だから、降霊術のショーで「来ました」とされているものは魂ではなく、幽精や悪魔である。悪い魂たちは、そもそも鎖につながれているのでやってくることはできないし、善良な魂たちもそう簡単には来られない。ただ、偉大な魂はいつでもこの世を訪れることはできる。信仰の面で更なる発展を遂げ、自らの墓場ともつながりを維持し続ける。
預言者ムハンマドは多数のハディースで、我々を、墓場やそこにいる人々に関して注意深くあるようにと導く。さらには、今日の超常心理学者が提唱する一つの事実として、魂は自らの墓に置かれた亡骸の原子と最後まで関わりをもち、時にはそれらを訪問するために墓場に出入りしえる。それと共に、自らの骨や原子や微粒子とのつながりを維持している名誉ある魂は、その墓場に行われる干渉、さらにはその地に建物が造られ、その建物で罪が犯されたりすることなどにおそらく苦痛を感じる。今日これを裏付ける出来事が、各地でいくつも目撃されている。例えば、アンカラの中心部のある墓地で、ブルドーザーがその地を掘り起こせなかったという出来事があった。何百人もの人々が、ブルドーザーが釘付けになったように動かなかったことを語っている。西洋の文筆家たちも、この件に関して多くのことを述べている。以前はこういった出来事を、モスクのイマームたちが説明すると「作り話だ」と言われたが、今では学者たちがこれを説明しているのだ。しかも、学問として。
11.魂が肉体を離れた後、一部の器官が生命を保つことはありえるのか
一定の細胞群のコロニーが集まって形成された、国にも例えられる肉体を、それぞれの細胞とつながりを持ち、命令や指図を行なっていた魂が肉体から離れていった後も、一部の細胞はその生を一時的ながら保つことができる。もし、脳の一部の細胞が五十時間から百五十時間死滅せず、変形することもなく残ることができれば、その場合、その期間において脳から独自の信号や知らせ、メッセージを読み取ることは当然可能となる。長年、特に加害者がわからない殺人事件を解明するために、このテーマにおける研究が行われている。脳に死滅せず残っている細胞の言葉を理解し、暗号を解くことのできる電子脳模型装置が発明され、この方法で犯人不明の殺人事件が解決されるようになれば、預言者ムーサーの時代、死体が生き返って自らを殺した犯人を知らせたという出来事を示すクルアーンの章句[iv]の神秘に近づけたことになるだろう。
12.魂と共に肉体も復活するのか
まず、以下の点を明らかにしておきたい。肉体と魂との関係のあり方は、世界が異なることによってそれぞれ違ってくる。この世界でも、お墓でも、霊的世界でも、あの世でも、それぞれ異なるのだ。この世界で、私たちは物質的な影響を受けている、魂と肉体のつながりを目にしている。
真実を探求する多くの学者たちが、人における基本的な、基礎的な分子について語っている。人の第一の分子、つまり人の体のちょうど土台、基礎であり、ハディースにおいては「尾てい骨」によって説明されているこの基本的分子がどの部位を指すものか、明らかにすることは可能ではない。アッラーは人間をこの土台である分子の上に形成され、あの世においてもそれを土台として復活させられるだろう。[v]
人における特質の集まりであるこの分子とは、もしかしたら遺伝子のことかもしれない。もしそうなら、人におけるすべての遺伝子は非常に小さなものである。しかしこれほど小さなものでも、魂と関わりを持った時には、物質として痛みを感じ、同様に快さも味わうのである。おそらく、復活の時、それからその後の世界において、人の全ての分子ではなく、それぞれに固有のこの基礎的な分子が魂と接触を持つのだろう。そして多くの人々の注意をひいているように、アッラーのお恵みによって周囲から集められた異なる分子と同様、果実や地面の分子といったような、この世で奉仕していた他の分子たちも、物質を形成するだろう。これがこうなることを妨げるものは何もないし、そもそも道理に適っているのはこれだと私は考える。他の分子たちは、その世界に適した形で基本の分子の周囲に集まり、人の肉体を形成するのである。
13.地獄の罰を受けるのは魂か、肉体か
一部の哲学者や神秘主義者、キリスト教徒は、ただ魂のみが罰を受けるとしている。しかし我々「スンナとジャマーアの民」[vi]は、肉体が魂と共に復活することを信じているように、肉体も魂と共に罰を受けることを信じる。なぜなら、魂と肉体の状況は、目の見えない人と足の不自由な人との結びつきのようなものであり、目の見えない人が足の不自由な人を背負い、足の不自由な人が道を教え、このようにして二者共が進むことが可能となるのである。魂と肉体は、この世においてそうであったように、あの世においても罰や喜びにおいて共同体となる。さらに、クルアーンの章句やハディースも、肉体や器官が受ける罪や味わう恵みに関して明らかに言及しているのである。あの世での生に適した肉体を考えずして、恵みの恩恵をどのように受けることができるといえようか。それから、魂と共に肉体の原子群も創造されたアッラーは、魂と共に肉体も復活させられ、罰を与えられるか、あるいは恵みによって報奨をお与えになるであろう。力と英知はこのお方のものである。どのように望まれたとしても、そのようになされるのである。人は、それぞれのテーマの真実に、あの世へ行った後その驚異に向かい合った時に理解する。なぜならそれらを見た目も、聞いた耳もなく、またそれらは人の考えつくようなものではないからである。
14.死後、魂に贈ることができる最大のプレゼントは何か
まず、この世界から移っていった魂は、あの世で必要となる贈り物や糧、必要となるもののほとんど全てを自ら携えている。神聖な一つの法則として、全ての自我はここで獲得したものを、あの世において準備の整ったものとして手に入れる。一つの国から他の国に移る際にパスポートやビザが必要となるように、墓場から始まって天国の扉にまで続く生においても、形や型ではなく心における信仰や価値を持つ行為が要求される。これと共に、去っていく者がどのように、何を携えていくのであれ、行った先でもそれに応じた対応を受ける。ただし三つの入り口、窓があり、これらを利用することも可能である。[vii]
「その効果が継続的となるサダカ」(自発的喜捨、施し物)と言われる、人々がその益を享受することのできる道路や橋、モスク、泉、病院、施設、そしてこれらを最も効果的に、有意義に使うことのできる子孫を育成するために、寮や保育所、学校、施設を造ることといったような価値を持つ行為を行なうことである。後に遺されるこの種の施設が活動を続けている限り、預言者ムハンマドのお言葉によると、よい道への媒介となったことから、審判の日までそこで育成される人たちが獲得した善行のすべてが、その施設を造った人の行為の記録にも記されることになるのだ。
学者たちが遺す作品も「その効果が継続的となるサダカ」の一つである。学者はその能力に応じて、それらの作品から善行を得る。さらには、学者たちを援助し、保護し、真の学問の道を歩き、その足元で天使たちが翼を広げている子孫を助け、彼らの教育費や、食事や衣服を保障するという形で行われる活動も、善という面で、閉じることのない窓、その効果が継続的となるサダカと見なされる。
去っていく魂は、後に、善行を行ない価値ある子孫をもたらす子供を必要とする。そもそもアッラーは、あなた方の子供たちのためにその世界を準備されておられる。あなた方も、子供たちを守り、彼らのための施設を準備し、奉仕し、彼らの成長のために細心の注意を払ったとしたら、その場合あなたの後に価値ある子供や子孫を遺したことになるのだ。ただ、あなたが遺すこのような子孫こそが、審判の日にあなたの助けとなりえるのである。お菓子や食べ物や、死後七日目や四十日目や五十二日目の集いや、有料のクルアーン読誦、埋葬後の祈り、巡回、壁に掲げられる古い写真などではない。死者のお墓を訪問し、挨拶を送り、心を躍動させなさい。言葉として祈りや悔悟、目には滴る涙があるように...。そして彼らに、あの世で通用する通貨となる、プレゼントを贈るのだ。
[i] 聖クルアーン「小さい誤ちは別として、大罪や破廉恥な行為を避ける者には、主の容赦は本当に広大である」(星章53/32)
[ii] Ibnu'l Athir Usdul'Gaba 2/375~376
[iii] ハディースBukhari, Manaqib 12
[iv] 聖クルアーン 雌牛章72~73節 「また、あなたがたが一人の人間を殺し、それがもとで互いに争った時のことを思い起せ。だがアッラーは、あなたがたが隠していたことを、暴かれた。われは『その(雌牛の肉の)一片でかれを打て』と言った。こうしてアッラーは死者を甦らせ、その印をあなたがたに示される。必ずあなたがたは悟るであろう」
[v] ハディース Bukhari, Tafthir, Zumar 3, Amma 1; Muslim, Fitan 141, (2955); Muwatta, Janaiz 48, (1, 239); Ebu Dawud, Sunna 24, (4743); Nasai, Janaiz 117, (4, 111)
[vi] 訳者注 「スンナとジャマーアの民」はイスラーム教徒の大多数を占める、預言者ムハンマドの慣行と共同体の団結を重視する宗派である。ごくわずかといえるが、信仰上の問題においてそれらと異なる、ムスリムの集団が存在する。(ムータズィラ派やジャブリヤ派など)。また、政治や古代哲学の影響により、教えにおいて教友の占める位置に関する見方が異なる集団も存在する(ハーリジー派、シーア派など)。
[vii] ハディース Abu Daawud, Wasaya 14; Ibn Maaja, Muqaddima 20
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