魂、天使、悪魔と幽精の存在

私たちの知覚能力は限られたものである。だから、私たちの知覚を超越した領域の存在を否定することは、賢明とは言えない。私たちが存在について知っていることは、私たちが知らないことよりもはるかに少ない.私たちの科学はまだ「少年期」にあり、将来は、科学のさらなる発見と発展を目撃するだろう。

科学は、理論に支えられ、理論の証明や調査における、挑戦と失敗を通して発達する。かつて真実だと考えられていた無数の「事実」が、今では真実ではないと判明されている。私たちは疑いの余地がなく、科学の裏づけのない、多くの物事の存在を受け入れている。昔から、多くの人々はそれぞれの特質が若干異なっても、魂(ルーフ)や天使(マラーク)、悪魔(シャイターン)そして幽精(ジン)の存在を信じていた。だから、まずそれらの存在を受け入れ、それから調査をしていくという方法のほうがより科学的と言えよう。具体的な根拠に基づくことなく、これらの存在を否定してしまうことは、科学的ではない。誰も、目には見えない領域の存在についてそれが存在しないと立証し、科学的に主張することはできないのだ。

イスラームにおいて魂、天使、悪魔、そして幽精の意味や特性の説明を後にして、まずこのような創造物の存在について説明しよう。

1.物質の非物理的な側面

多くの物理的な状態(熱さ、冷たさなど)、また多くの抽象的な状態(美、魅力、喜び、悲しみ、愛)は、容易に体験できるものであり、また程度付けもされやすい。唯物主義者は、それらを脳の中の生化学的なプロセスによるものだとし、また一部の科学者(心理学者や精神医学者など)は、それを自然や物理の摂理によって説明しようとする。しかし、私たちの非物理的な側面、すなわち、個々人の感覚、信条、可能性、願望などは、物理や化学や生物によって説明するにはあまりに深遠なものと言えよう。

2.見ることができないということは、これらが存在しないということの証明にはならない

人が見ることのできるものは、全被造物と比べるなら非常に限られたものである。だから人は、自分の見ることができないものについて「そんなものはない」と言い捨てることはできない。我々が存在を知っているのに、我々の眼には見えないものはたくさんある。昨日まで知らなかった多くのことが、今日我々の知るところとなっている。我々が知ったものは、多くの知らない事項への扉を開くものである。ここでのテーマに関する存在についても、同じことを述べるのに差し障りはないであろう。

3.我々の経験や知識、観察の範疇には収まらない

魂、天使、悪魔と幽精は、我々と同じ範疇に収まっているものではないので見ることができない。我々は、自分たちにある器官を使って、同じ範疇にあるものだけを見聞きすることができるのだ。事実、計量の単位さえ、被造物の特質によって異なってくるのである。例えば、距離、重さ、濃度の計量単位はそれぞれ異なる。火の熱さを、そこに手をかざしたり、熱さを測定する器具を使ったりせずに知ろうとする人の状況と、物理の範疇を超え、物質ではない存在を物質的な手段で見て、確認しようとすることはお互いに似ているといえよう。双方とも、目標を達成する上で誤った道をたどっているのである。

4.小宇宙である人間において魂とは、宇宙における天使のようである

宇宙を統治しているのは精神と魂である。物質的なものではない。そして、最初に創造されたものも、物質ではない。まず、光、魂、そして物質のための型となる特性が、創造されたのである。これは、最も小さなものから最も大きなものにいたるまで、すべての存在においてこのとおりである。存在は、後から、一定の時間のうちに、その型にあわせて形成されていったのである。

存在しているものにおいては、一定の宿命、数学的基準、計画、プログラムがそれを支配している。摂理や、変わらずに続いていく原理のおかげで、そしてこの原理の統治のもとで、すべては見守られ、監視され、守られながら、起こっていくのだ。ここにおいて、目に見えるものの背後には、目に見えない力が感じられるのである。

例えば、もし我々が種子の言葉を理解でき、種子も我々の言葉を理解できたとしたら(おそらくは理解しているのかもしれない)「あなたは何になりたいですか」という問いに対して種子は「木に」と答えるだろう。そして結果として、木になるであろう。

季節の移ろい、様々な時期を経ること、他の場所へ移されること、これらはこの種子の言葉の実現を妨げない。なぜならそれが木になるということは一つの法則であるからである。ここで我々は、この種子が木になるという法則について説明することができるだろうか? いや、できない。それなら、それを否定するのだろうか? これも当然できないことである。

目に見えない美しさを持つ風は、木々を根こそぎ引っこ抜き、屋根を吹き飛ばす力と強さを持つ。毎年何度も何度も目撃するこの種の出来事に反して、我々は風における力と強さを、ただ目に見えないからといって否定するのだろうか?

電気は、一定のシステムに接続されると、スイッチを押すのが誰であれ、広大な工場、大きな機械を動かす。しかし私たちは、そこに蓄えられた力を、それが成し遂げた成果においてのみ見ることができるのである。電気におけるその力は、誰も見たことがないのだ。それでも、目に見えないものなら否定する単純な思考の持ち主以外は、誰もその力を否定した者はいないのだ。

微粒分子から天体にいたるまで、その存在が皆に認められている、作用・反作用の法則もまたそうである。この法則によって、この世界の秩序と均衡は継続する。ここで、私たちはそれが及ぼす結果を見ているが、その力そのものは見ていないからといって、この法則を否定できるだろうか?

このような例は他にも多くあげることができる。しかし結果として、そういった存在、事項が私たちに伝えるのは、次のことである。

「友よ。あなたは私たちに惑わされてしまっている。私たちはただ、見かけのきれいな覆いに過ぎないのです。私たちは、自分たちに与えられた命令に従っているのです。私たちの上にもある存在はあり、それらは魂と天使です。あなたは、あなた自身の世界に一部をのぞく私たちを見ているのです。しかし、本体、本来の力は、魂や天使に帰されるもの、そこに見られるものはアッラーに帰されるものなのです。そう、忘れないでください。小さな宇宙である人間は魂が管理していて、大きな人間でもあるこの世界は、天使がそれを行なっているのです」

5.全世界は、生命と意識を持つ存在のために創造された

生命が、物質的な肉体に仕えているのではない。物質的な肉体が、生命に仕えているのである。大地から空気へ、太陽へ、風へ、それからこの世界に現れるあらゆる摂理、法則、そしてこの法則と秩序によって確保される均衡にいたるまで、すべてを各々に、そして全体的に綿密に調べるなら、私たちは次の事実を見ることができる。すなわち、これらはすべて、地上で生物たちが、特に意識を持ったものたちが生きるための基礎を整えるためのものだということである。

宇宙に無駄はない。もし、生命という結果がもたらされないのであれば、これらはすべて無駄、無用なこととなってしまう。

なぜなら、生命がなければどんな存在も、あるいはその存在の特質も、意味がなくなってしまうからである。生命を持ち、意識を持っていないのならすべては色あせ、暗いものになってしまう。だからすべての宇宙は、生命と意識を持つ存在のために準備されたのだ。そしてこの地球は、これほど小さいにも関わらず、これほどの意識と生命を持つ存在で満ちている。我々の地球よりもずっと大きい星においては、当然それぞれの条件に適合する、生命や意識を持つ存在で満ちているはずである。そう、それらこそが天使であり、幽精であり、霊的存在なのである。

6.生命は物質に結び付けられているのではない

もし、生命が物質に結び付けられたとしたら、生命体の完璧さは大きさに正比例でなければならない。象やサイなどはノミよりももっとすばやく、繊細で敏感でなければならない。最も鋭敏な感覚はハエでなくて山が持っていなければならなかっただろう。エベレストがじっとし続けているのに、一羽の鳥が世界を自在に飛び回ることはできなかったであろう。つまり、物質は固定的で受身であり、これに対して精神的なものである生命は活発で活動的である。生命とは中身、真髄であり、物質は皮、殻である。物質とは、ただ、生命に仕えるものに過ぎないのだ。だから、本質的なものは、目に見える部分ではなく、見えない部分なのである。

7.この世界で起こる出来事を、想像的な法則に帰することはできない

仮定的で、名目上のものである引力の法則は、巨大な物体である天球を背負うことはできない。何千ものことについてサインがある、脳の働きは、脳のその驚くべき機能を見る限り、外見上の要因である科学的反応に帰すことはできない。

だから、法則や摂理をその手にしている天使、そして脳の司令官である魂の存在を認めなければならない。天使や魂の存在をさしおいて、これらすべてを想像上の法則や崩れ去ってしまう物質に帰すことは、論理的な説明ではない。

8.魂、天使、悪魔と幽精に関する問題に解明をもたらす多くの出来事がある

この世界は生命体で満ちている。それぞれの生命体は、それ自体の生活条件にふさわしい機能を備えている。陸で生きるもの、海で生きるもの、全ての生命体はそれぞれの世界にふさわしい機能を備えているのだ。これら生命体は、自らがいる条件の外部に抜け出して異なる世界で生きることができない。人間はどれほどの装備で飾り立てても、針ほどの小ささの魚ほどにも生きることができない。装置をつけて、一時的に彼らの世界を訪問できるだけである。

我々の周囲は、何千もの種類の被造物に囲まれている。氷河で生きるもの、砂漠で生きるもの、酸素を空気中から吸収するもの、水から確保するもの、土から生えるものを食べるもの、土そのものを食べるもの、地を這うもの、天空で翼をはためかせるもの、水中で泳ぐもの、他にもどれほどの種類があることだろう。

そう、この小さな世界において他のシステムとは比べものにもならないほどに、何千もの種類の生命とその生存方法が存在する。地上においてこういった状況があるならば、地球よりもずっと大きい星の世界や太陽や惑星群において、そこの条件に適した住人はいないものだろうか? 「いない」という返事は当然誤りである。なぜなら我々人類は、そういった地点における条件に入っていって確かめたわけではないのだ。大海に潜っていき、そこに生きる生物を見たことがないことからくる、そこの生物への否定と他の世界に生きる生物の存在との否定の間には相違点はないのだ。海でもおぼれずに生きる生物がいるように、火に焼かれることのない生物がいるかもしれない。そしてそういった生物にとって最上の住処は、おそらくは地球ではなく、太陽やそれに類した星であろう。地球においてさえ、魂の力や天分によって火で焼くことのできない人々がいるのである。だから、生活条件を自分たちの世界とだけ比較して、他の星における意志をもつ生命体の存在について、無意味なものだと決め付けることは、決して正しいことではないのである。

あなた方が化学者と話をなさったなら、物理学者や宇宙物理学者と語り合われたなら、生物学者と動物学者と考古学者と交流をされたなら、そして医学の世界において少々深い知識を獲得されたなら、あなたの目の前には信じられないような世界、信じられないような生活条件、そして冒険に満ちた旅が広がることだろう。あなたが知らないこと、あるいは少なくとも目に見えることのないこういった項目について説明された事項を認識することができなかったとしても、すぐに否定には走らないというのが最も道理に適った道であろう。なぜならそこで説明をしているのはその分野の専門家なのである。

話をここでのテーマに結びつけるなら、天使について説明し、幽精の生き方を語り、魂の問題に答えをもたらす、何千もの何十万ものその道の専門家がいるのである。私たちは天使や幽精や魂を自らが見たあるいは見た人から聞いた彼らから伝えられた何百もの出来事を知っている。語られている話は非常に多数であり、このテーマに確実性を獲得させていると見ることができる。この場合、ここで語られていることについて信じること、あるいは少なくとも否定しないことが必要とされるのではないだろうか。

9.他の星にも、また異なった種類の生物が存在することは、常にありえることである

このテーマには、例え話から入っていこう。類を見ないような、また無数の宝物、比類なき美術の持ち主である皇帝を考えてみよう。この皇帝が宮殿群から一つの街を作り、その雄大な街の片隅には、小さな小屋が作られている。この小さな小屋で、大きな仕事がなされ、様々な生活条件が存在し、様々な食物で器が満たされ、空っぽにされるのを我々は見ている。それから我々の目をその堂々たる街のほうに移す。しかしそこでは誰も見当たらない。ここで、私たちが誰をも見ることができなかったという事実を、いかなる要因に結びつけるべきだろうか? 目の無力さだろうか? そこの住人たちが隠れていることだろうか? あるいはそこに誰もいないということにだろうか?

この雄大な街で、何千もの宮廷が空っぽで無人であり、ただこの小さな小屋にだけ何千もの生命体に満たされているという認識を意味するこの最後の見方は、当然知性ある人が取るべきものではない。すなわち、私たちの目の無力さがその宮殿の住人を見ることを妨げているか、あるいは我々が知らないある英知によって、我々から隠れているかのどちらかなのである。

地球は、この例え話における小屋であり、宇宙はその雄大な街、星たちはその街の壮麗な宮殿群である。この地球という小屋においてこれほどの光、色彩、音響の宴を見た人が、なぜ、その雄大で壮麗な星の宮殿が空っぽであることを認められようか。そこにも生命は存在し、意識をもつ住人がいるのである。私たちがそれらを見ることができないということは、彼らが存在しないということにはならない。これは私たちの目の無力さ故であるか、あるいはそれらが身を隠している故である。

そもそも我々は、地球そのものをも生命をもつ存在としてみている。そう、人の肉体を魂が支配しているように、地球は、司令者という意味では天使たちが支配している。この法則は天空の全ての物質にもいえることである。

10.地球という庭園のナイチンゲールのように、宇宙の全ての美を歌いあげる

ナイチンゲールたちがいる

宇宙の美を歌いあげるナイチンゲールたちがいる。このナイチンゲールたちは、私たちの地球という庭園のナイチンゲールのように、宇宙という庭園の星という花々について、感謝をあらわす賛歌を歌いあげる。時には物質からなる何らかの存在を住処にし、神の力の物質における顕示を見て、驚く。時には巨大な銀河の唱念をアッラーに伝える。それらは永遠にしもべとしての任務にあり、ただしもべとして成り立ち、生きる。そう、それが霊的存在であり、天使たちなのだ。

11. これらの存在を預言者たちおよび聖人たちが伝え、哲学者や知識人がそれを証明する

魂、天使、幽精といった存在について、どれか一つに関する立証は、その全てに関する立証を意味する。ここでは部分は全体を示すのだ。数人の体に腎臓があるのを確認すれば、全ての人において腎臓を確かめるまでもなく、私たちは全ての人に腎臓があるという結論に達する。そして私たちは、示されている一つの動物から、その種が地上に存在するという結論を導き出す。

しかし、ここでのテーマである天使、魂、幽精といった存在は、その何千もが、何千人もの人々によって伝えられているのだ。生涯嘘を付くことのなかった十二万四千人の預言者たち、何百万もの聖人たち、同じくらいの数のその他の人たちが、何千回となく天使や霊的存在を目にし、出会い、彼らとの出会いを他の人々に伝え、これらの伝えられた事柄を記録し、我々にまで至らせたのである。嘘などありえない人々、また嘘において一致することなど考えられない何十万、何百万もの人々が、様々に異なる時代、場所において何かの問題について一致している場合、そこに疑いの余地は残るだろうか?

さらに、知恵という足で歩くとされる何百もの哲学者や、知識人たちが自ら見出し、あるいは聞いて、このテーマを承認していることもまた、この立証という観点から重きを置くに値する事実であろう。

12.人間の特性における善と悪の力を象徴する二つの極があり、それが天使と悪魔である

この宇宙において全てが、自らをその対極によって明らかにし、対極によってそれを感じさせるということは先にも述べた。そこで言えることは、宇宙において善を奨励し応援する存在である天使の対極に、災いと悪の見掛けを繕い、それらを行なうように人を励ます悪魔(シャイターン)が存在するのであり、またそれが必要なのである。

アッラーは善と美、意義のある事項を愛され、絶対的な完全さと美の持ち主であられる。それに対し、災いや悪の創造主がご自身である上でなお、災いや悪に対して決して好むお気持ちやお悦びは抱かれない。悪の源であり、真髄であり、奨励者であり、飾り立てる者であり、人の心に疑念という形で忍び込ませ、その意志により人を迷わせることによってアッラーが悪を創造される原因であって、地獄の魂を持つある存在があり、それこそが悪魔である。悪魔は何も創造しない。創造できない。善も悪も、創造されるのはアッラーである。ただ、アッラーは悪を悦ばれない、しもべたちを弾圧されるお方ではない。つまり、しもべの手を縛られ、無理やり罪を犯させられることもない。アッラーが、正しく健やかという性質を与えられて創造された人間は、悪魔の計略や装飾にごまかされ、その意志と天性の性質を失い損ない、悪事を犯す。アッラーが創造される悪とは、このように人が犯し、実行者となる悪なのである。

その善良さ、品性のよさ、美徳によって称えられる人を「天使のような」と表現する。それと同じように、その凶暴さでハイエナを凌ぎ、常に品性がこの上なく悪く、人を裏切り、ずる賢さを持ち、残虐で、人を制圧することに喜びを感じ、全ての悪の導き者となるような人のことを「悪魔のような」と表現する。この似せ方は何を意味するのだろうか? 単に空想的な似せ方であろうか? 人間は、自分たちと動物たちの間においてさえ、多くの共通点を見出し、これらは慣用句や概念という形で人の口に上る。アレクシス・カレル(一八七三~一九四四、フランス)がヨーロッパの人々のために作り出した「人間...!」の定理を研究してみてほしい。そして、言葉の王であられるある御方(サイド・ヌルシ)がおっしゃられたように、この時代において、仕立て屋が服を裏返す行為が人々においてされたとしたら、私たちの前には非常に変わった動物の光景が広がることだろう。

そう、人の魂において揺れ動き、心や知性の世界で戦い合う、競い合う何千もの崇高なあるいは劣悪な感情や思いや同様の感情や性格とともに、それらを象徴する善い、あるいは悪い魂がもたらす、品性に関わる振る舞いは、常にぶつかり合う二つの力を我々の目の前に示している。そして、常に発達させ、飾り立て、奨励し、それらが象徴する概念を人々に反映させる二つの極、それが天使と悪魔である。

人間はこの世界の小さな目録のようである。片方が種であり、片方が木である。一方にあるものはもう一方にもある。血管に対して川。心に対して至高の玉座。脳に対して霊的階位。記憶に対してアッラーの定められた全事項が記されたもの。愛情に対して引力。憎しみや激しい怒りに対して嵐や高波。楽しさや喜びに対して太陽や春。同様に、魂で感じることや崇高な感情やそして善良さと天使に対して、疑念や醜い考えや劣悪さと悪魔! つまりこれらは人間におけるこういった感情、思考、疑念を象徴しているのである。普遍的に知られている比喩表現がある。天使のような人に対して、悪魔のような人...。

13.クルアーンや預言者ムハンマドの説明によって確定されている

聖クルアーンがアッラーの御言葉であることを証明しているすべての根拠や、預言者ムハンマドが預言者であられることを証明するすべてのしるしは、同時に魂、天使、悪魔、そして幽精の存在の根拠であり、しるしである。それらを否定することができない人には、これらの存在も否定できない。なぜならこれらについては、聖クルアーンにおいても、預言者ムハンマドの聖なる御言葉においても、様々な形で取り上げられ、詳細が語られ、その存在はこれらのお方自らによって認められているのである。そう、魂や天使や悪魔や幽精に関しては、こういったしっかりした根拠によって確証が与えられているのだ。

多くの項目においてそうであるように、ここでも、これらの存在に関わる、それ以外の根拠が何もなかったとしても、預言者ムハンマドと聖クルアーンは根拠として十分である。14世紀の間、聖クルアーンや預言者ムハンマドの御言葉が一つであれ否定されたことがなかったのと同様、それに対抗するものも持ち出されることはなかったからである。

学問として、確実で不変なものと認められる定理がどれほど見出されたとしても、そのほとんどすべてはその真髄の部分が聖クルアーンですでに見られ、14世紀前に知らされたことであることを我々は見てきた。だから天使、魂、天使、悪魔と幽精の存在は我々自身の存在と同様に絶対で、聖クルアーンや預言者の正しさがはっきりしているのと同等にはっきりしたものである。それらを信じずに否定という道へ迷う者は、ただ誇りやうぬぼれ、頑固さ、先入観、そして聖クルアーンやイスラームへの敵対心があるがゆえに、この理解しがたい状態に陥っているのだ。

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