悪魔と疑念
1.悪魔とその働き
悪魔(シャイターン)は、幽精(ジン)のように火から創られた。反抗する以前は崇拝を行なう天使たちの中にいて、彼らが行なうことを行なっていた(洞窟章18/50)。天使たちは反抗や反乱は起こさず、命じられたことを行なう(禁止章66/6)。しかし、悪魔は天使たちのように罪を犯さない保証はなかった。
悪魔の中に存在したうぬぼれや反抗の種は、最初の人間アーダムに対して尊敬の表現のために平伏するよう命じられたとき爆発し、表面に現れた。うぬぼれをもって「私は彼より優れている。あなたは彼を泥から創られた。私は火から創られた」と言ったのである。(サード章38/76)クルアーンの言葉によると、反抗したのはイブリースであり、この反抗以降悪魔という名称と、審判の日まで生きる許しを得た。そして「私は、彼らを前から、後ろから、右てからも左手からも襲いましょう。あなたは彼らの多くの者が、(御慈悲に対して)感謝しないことが御分かりになるでしょう」と宣言したのである。(高壁章7/17)
ここでは、次の点をあらかじめ明らかにしておきたい。戦争において、敵軍は、個人個人というよりはそれぞれが所属する全体の力や強さ、武器や弾薬の状況、攻撃能力、数や武器における優位性、どこに陣地を占めているか、といったような最も重要となる特徴が探られ、それに応じた態度がとられる。敵の将校や兵士の髪や目の色、服のタイプや、その他個人的な特徴を探ることは何の役にも立たない。もし何かの役に立ったとしても、前者の特徴ほどの重きはない。
これは、幽精や悪魔についても同様である。このテーマにおいて私たちにとって最も重要なことは、悪魔の接近方法、永遠の生への保証である信仰を狙ってくるその策略、わなについて明らかにし、必要な手段をとることである。
2.悪魔の創造の神意とは
悪魔が創造されていなかったとしたら、人の創造には何の意義もないことになってしまう。アッラーは、決して罪を犯さない、悪魔がもたらす疑念にもこだわってしまわない、天使のような無数の存在を創造されたのである。アッラーは、人間とは異なる存在として植物や動物を創造されたように、神の芸術を、天使たちとはまた異なる形で映しだす鏡として、人間を創造されることを望まれたのである。そう、創造された人間の特性において秘められている能力が出現し、発達し、目に見える形で現されるために、人間の前に、一つの鼓舞、励ましの要素として、そして発展への媒介として、悪魔や悪い魂を創造されたのである。内面のうぬぼれや反抗の種が外面に現れている悪魔は、意志をもってするべき事をしている。悪魔は、人間を後ろから追い上げる、ライバルのマラソン選手のようである。人がその目標に達することができるように、成功することができるように、一瞬たりともその後について離れないこの永遠のライバルを超えられること、先を越せること、常に彼よりも前に、先にいることができることが必要となるのだ。もしこういった、人間をやる気にさせるライバル、敵がいなかったとしたら、人が真剣に競い、その能力を発展させると言うようなことは絶対に実現しなかっただろう。もっと正確に言うなら、その能力を発達させるところを見出せず、結果として敗北することになっただろう。人間は、最も高い人間性の段階、完成された人間としての段階を、この永遠の敵と戦うことによって手にし、そうしてアブー・バクルのような人たちを生み出してきたのである。同時に、同じ人間が、この戦いにおける無力さによって、アブー・ジャハルのような状態にも至ったのである(脚注5を参照)。
災いは、悪魔が創造されたことではなく、それに従って災いを犯すことである。何らかの殺人事件において、その殺人に使われたナイフや銃ではなく、それを行なった人が真の原因であるように、悪魔もまた、人間の犯した災いで使われた、血にぬれた道具なのであり、真の犯人はその道具を用いた人である。そう、人間の我欲、そして我欲の支配下に入ってしまった意志が、悪魔の示唆の影響を受けて悪いことを行ない、その結果到達することとなった悪い結果の真の原因は、悪魔ではないのだ。悪魔と災いは、低俗な一つの理由に過ぎない。真の病は人の意志にある。そう、人間は、悪魔の存在によってではなく、自らの意志によって悪事をなすのである。
人は、自らの狭い世界、そしてその手にしたささやかな結果によって物事の価値を判断する傾向にある。しかしアッラーの創造は、全体的な結果、効果を考えてなされる。例えば、火に手を突っ込むと、その火は我々の手を焼く。これは一つの特徴である。ここで、火について「完全に害のあるものだ」ということは言えるだろうか? この種のたくさんの害があることを知っていたとしても、私たちはその全体的な結果を見て、火に価値があり、必要なものであると判断している。電気や雨も同様である。アッラーは何かを創造される時、全体的な結果を考えられる。悪魔が創造されたということも、全体的な結果を考えられてのことなのだ。アブー・ジャハルがその意志のうちに地獄へ引き込まれたこと、アブー・バクルのようなダイヤの魂を持つ何千もの聖人たちや完成されたムスリムたちが成熟を遂げて天国へ至ったこと、その双方に悪魔の働きがあるのである。
大きな、全体的な結果を見ず、小さな災いの原因になるからと言って、私たちは火や、電気や、雨を害のあるものと見なし「存在しなければよかったのに」と言うだろうか? ノーである。同様に「なぜ悪魔が創造されたのだろうか」と言うことはできないのだ。体全体の回復のためには、ガンに冒された腕や足を切除する。悪魔がもたらす大きな結果や効用がある以上、その少々の災いのために不平を言うことはできない。兵士たちが死ぬからと言って兵士と言う職業をなくそう、戦争には行かないようにしようということができるだろうか? 悪魔が持ち去ってしまったものは、信仰の面から、それが獲得させたものに比べて千分の一あるかどうかである。「どういうことだ? 悪魔に惑わされて何千人もの人々が地獄に落ちているのではないか?」と言うことはできない。なぜなら、信者たちにおける特性は、不信心者の数よりもさらに重要であり、さらに優れたものであるからである。千個のナツメヤシの種のうち、十一個が木になるのだとしたら、千個の種の所有者になることがよりいいだろうか、それとも、九八九個が腐ってしまったにも関わらず木になった十一のナツメヤシの木の所有者になることの方だろうか?
3.疑念とは何か
疑念とは、悪魔が人間の心を悩まし、その想像の鏡にいくつかのシーンや景色、記憶や想像を投げつけるということを意味する。悪魔が、人に、特にムスリムに対する最後の計略、最後に使用する砦、最後の武器、最後の陣地が疑念である。悪魔は、憎悪や逸脱へ至らせることのできなかった人に対して、手段が尽きたことのしるしとして「疑念の矢と弾丸」を用いる。ある観点から疑念は、悪魔の「あなたは私の友にならなかった。あなた自身の友にもなるな」という考えにより、信者に我を失わせる努力なのだ。
4.心にある「悪魔の点」とは何か
悪魔の点とは、悪魔が自らの大砲、銃、矢を向け、標的にする、信者の心の中心の重要な弱点である。人の心には、テープのように記録を行なう、天使からのインスピレーションがもたらされる発電所と、それに並んで悪魔が降らせる疑念の矢の的となる発電所とがある。これはちょうど、鏡の透き通った輝いている面と、黒くつやのない面とが一緒にあるようなものである。ご存知のように、電池にすらプラスとマイナス電極がある。ある意味、これらも、このような形で補填し合うという関係にあるのである。
5.疑念はどのような人により起こりやすいか
新しく入信したムスリムまたは、新しくまじめに宗教行為をやり始めた人々には、あまり疑念は起こらない。疑念は、身も心も教えのために捧げ、その手綱を悪魔の手から引きちぎり、アッラーに対するしもべとしての振る舞いを多少なりとも実行している人、信仰という点でも成熟している一部のムスリムたちにより多く起こる。心の能力によって内面世界において進歩を遂げつつある人、弓形を描きつつ、完全な人間という段階へと昇っていっている信者たちは、その途上のかすんだところで悪魔の疑念に直面する。そう、人間は、魂が天空に向かって上昇している時、それぞれの段階、地点で悪魔はわなを仕掛け、待っている。悪魔にとって最も適した瞬間に弓をひき、矢を放ち、疑念を送る。つまり疑念は、信仰の扉の深さや力に対する、悪魔の嫉妬、反応なのである。
疑念は、時には神経質で繊細な魂に、時には過度に食料を摂取している、快適さにこだわっている人に起こる。ムスリムにおける疑念は、危機や抑圧といった形ではなく、不快さを与える種類のものとなる。信者が非常に成熟していたとしても、やはり疑念が起こることはある。さらには、教友の次に最も偉大な人物の一人であるイマーム・ラッバーニ(一五六三~一六二四、インド)ですら、疑念に捕らえられることはありえる。疑念に捕らわれた人は必ず成熟し、向上しているとはいえないのと同様、疑念が起こらない人は発達がないということにもならない。
疑念は、不信心者には起こらない。不信心者の憎悪は疑念ではなく、おそらくは計算され、計画付けられ、そして頑固な憎悪なのである。不信心者には苦痛、内面の苦しみ、満足の欠如等が起こりえる。しかしこれら全ては彼を攻撃的にする。悪魔は彼に独特の、新たな考えを吹き込む。否定の名のもとに様々な思想が与えられ、最後には不信心者に悪魔自身をも否定させ「悪魔は存在しない」と言わしめるのである。
そう、悪魔は、自らの記録簿に記載済みの人、その手綱を悪魔の手に預けてしまった人、とことこと悪魔の後をついてきているような人には疑念は抱かせない。なぜなら悪魔は、その空気、影響の範囲内にいる人、目が覆われ、その脳が目に、その心も胃にあるような人とは関わらないからである。彼らは悪魔の籠の中、わなの中で、身動きしない獲物なのだ。「救われたい、どうしたらいいか」とも思わない獲物である。彼らは悪魔に満足しているし、悪魔も彼らに満足して、一緒にやっていっているのだ。その道が続いているところまでではあっても。
6.悪魔が疑念を生じさせる意図は何か
悪魔は、信仰し、信念において完全で、崇拝行為(イバーダ)を果たすムスリムの心に入り込み、彼を教えへの憎悪と押しやることはできない。決して彼の心において、アッラーへの知識や愛情、預言者ムハンマドの慣行に従い、それを守ろうという考えが占めている場所を占領することはできない。彼に崇拝行為を放棄させるということでは成功できない。なぜなら信者は、どんなことにも関わらず、常に向上し、アッラーへの親しさを獲得し、その魂、感情によって、光の螺旋の中を上昇していっているのである。こういう状態において悪魔は「せめて、最後の陣地から彼に石を投げてやろう。疑念の矢で彼の心を曇らせてやろう。崇拝行為を行なう時の心の安らぎを壊してやろう。そうして彼の注意をひけるだろう。『今までこんなことはなかった、これは何だろう』と言うだろう。疑念を持ち、そのうち『こんなことには耐えられない』と言うようになるだろう」という望みで、信者に対して疑念の矢を放ち始める。この矢を受けてしまった、疑念に取り付かれた信者は、他の時には考えないようなことが礼拝中に思い浮かぶようになる。ウドゥー(礼拝の前にする小浄)を行なった後「腕を洗っただろうか? 頭をぬらしただろうか?」と言い、再度ウドゥーを行なう。もう一度、もう一度とやっているうちに、ウドゥーも、その他の崇拝行為も、彼には困難なものに感じられ始める。そして、ついには全てを放棄する(アッラーがお守りくださいますように)。その結果、崇拝行為から彼の心を冷めさせようとしていた悪魔のおもちゃとなってしまう。
疑念は、崇拝行為同様、信念と関わる部分でも起こりえる。その先では、悪魔が罪を飾り立て、思考を曇らせ、扇動する。そして人間を、知恵や論理や正しい判断を受け入れない、無意味なことを話す人にしてしまいえるのである。
7.悪魔がどうやって人間に接近し、人間を襲う
悪魔が反抗したとき次のように言った。
「あなたが私を惑わされたので、私はあなたの正しい道の上で、人々を待ち伏せるであろう。そして私は、彼らを前から、後ろから、右てからも左手からも襲いましょう。あなたは彼らの多くの者が、(御慈悲に対して)感謝しないことが御分かりになるでしょう」と宣言したのである。(高壁章7/17)
悪魔が様々な方面から人間に近づくということは、人間が体験する様々な状況において様々な次元で悪に誘惑されることを意味する。精神やその内面の構成から多くの側面を持つ人間は、それらの面を発展させることにより、その物質的あり方にも関わらず、天国にふさわしい存在となりえる。さらには、まだこの世界にいるうちにすら、アッラーがお与えになられた、あたかも天使の翼のような羽で、霊的存在と接触を持ち、幽精たちと会い、天使たちと関係を築く。そして向こうの世界から良心に吹き込まれてくる真実を聞き取り、感じることができるようになる。
これとは逆に、悪魔にも、人間の内面で稼動させる鉱山がある。全ての骨折り、努力をこの鉱山のために費やし、人を逸脱させるべく努める。そう、一定の効果のため、英知によって人間の特性に加えられている性欲、怒り、癇癪、知恵、熱望、頑固さといったものそれぞれは、宗教的感情によって正されなかった場合、良心に反対して使用される。これを行なうのが、悪魔である。
例えば、我欲下にとどまっている限り、良心は完全につぶされてしまうということになる。良心という天使的な部分が発展すると我欲は、良心の命令下に入ると言える。悪魔は、人が真髄を見出すことに対し、常に我欲を利用する。良心には決して近づけない。なぜならそこには意志があるからである。神聖な感情、意識があるからである。人が、その意志を用いることを知っていれば、彼には悪魔は近づけないのである。意識と神聖な感情という翼を得ていれば、悪魔の妨げにも邪魔されることなく、知識の空にはばたいていくのである。
そう、人の心がアッラーに満たされているこの空間においては、心の扉は常に悪魔に対して閉ざされているのだ。悪魔による騒動や嵐は外部で、その固有の場面で現れる。
悪魔的、あるいは天使的なあり方というのは、人間の特長においてお互いに非常に近い存在であり、常にどちらかがもう一方の影響を受けている。例えば、悪魔的な部分が爆発した爆弾の放射線は、天使的な部分をも影響下におく。先にも触れたように、悪魔は性欲をいじり、人を我欲へと押しやる。知恵をいじり、計略へと押しやる。なぜなら人の欲望、怒り、うぬぼれ、この世への執着をあおるからである。網にかかった人の感情世界、精神世界を曇らせ、彼らを彼ら自身から遠ざけることを望むのだ。
しかし悪魔は、いつでもその悪を感じさせ、悪事を行ないながら我々に近づくのではない。それは左から接近するように、右からも、前からも、後ろからも近づいてくる。悪魔のアッラーに対するその恐ろしい敵意、そして人をいかにして迷わせるのかということに対する不遜その表明をクルアーン自体が明らかにしているのだ。
「そしてわたしは、かれらを前から、後ろから、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、(御慈悲に対し)感謝しないことが御分かりになるでしょう」(高壁章7/17)
悪魔は前から接近し、人の未来に対する希望をくじく。復活を否定させる。「イスラームの教えはもはやその義務を終えた。二度と復活しないだろう」と言わせるようになる。心に失望感を抱かせ、将来を闇、ブラックホール、カオスのように見せる。
悪魔は後ろから接近し、預言者の光や聖人たちの光との結びつきを絶たせる。「時代は変わった、そんなのはもう遅れている」と言わせる。過去をののしらせ、自らの出自を否定させる。悪魔はこういう形で、過去や将来に対する窓を閉ざし、過去や未来に対する結びつきを絶たせた後、私たちに毒に満たされた思想や、飾り立てられた哲学を吹き込む。「過去も未来も全て作り話だ。二度とこの世界にくることもないだろう。過去はすでに過ぎ去った。あなたは今を生きることだけを考えなさい。あなたの一生を台無しにしてはいけない」と語りかけるのだ。
悪魔は左から接近し、人を明らかな、周知の罪へと引き寄せる。今日非常に広く見られている、あらゆる禁じられた道は、悪魔が左から接近したことの結果である。ここでそれらを一つ一つ数え、不条理さを描写したくはない。
そう、悪魔の更なる接近方法は、正しいように見せかけ、悪いことをよいことのように思わせる形による。信者にとって最も危険なのがこれである。罪に対して扉を閉ざし、崇拝行為に重きをおくムスリムに、悪魔は右側から接近し、自らを気に入らせ、成功を自らのものに、悪いことや災いや失敗を他者のせいにさせることによって、成功という場面で彼に最もひどい損害を与える。そう、信者が夜の礼拝に起きだし、それを翌日他者に語ったのなら、それは悪魔の右側からの一撃を受けているということを意味する。自分たちが行なったこと、語ったことによって他人にほめられることを意図し、仕事や奉仕ではなく賞賛が気に入っているというのなら、そしてその賞賛によって元気付いているようであれば、それは悪魔が私たちを右側から襲っているということを意味する。そう、こういった人は、カアバで周回を行なう時でも、戦いの最前線にたって奮闘している時でさえ、その行ないはもはや終わってしまっているのだ。
第二代カリフウマルの孫ウマル・ビン・アブドゥルアジズは、ある人に表現豊かな手紙を書いた。その後、少々仰々しい、大げさな表現を用いて書いたことに気づき、我執に影響を与えると考え、その手紙を破ったのだ。私たちが行なった仕事、任務、奉仕によって私たちの自我において興奮や喜びが生じているのであれば、その仕事のどこかに悪魔がもたらした何かが混じっているかもしれないということを考え、アッラーに向き合って結びつきを新たにしなければならない。そう、我々に必要なことは、自我の気に入るような物事に重きを置かず、何かを行なう時はそれがアッラーのご命令であるから行ない、その行為がもたらす喜びをあの世へ残しておくこととなる。
人は誰でも、アッラーが彼自身に与えられている恵みについて考え、どういう段階にあろうとアッラーの恵みにあずかっていることに感謝を行なわないければならない。人はアッラーに対する責任と感謝の義務を果たし、アッラーもその豊かな恵みの及ぼすところとして、人の意思や純正の度合いに応じて天国のような永遠の恵みにより、その慈しみにあらたな深みを獲得させられるのだ。
これらの他に、広い意味で、悪魔の右からの接近とは、大きな問題を小さな問題と、小さな問題を大きな問題と見せかけることだと見なすこともできる。私たちはよく遭遇する。その人はムスリムであり、巡礼も行っており、モスクにもいつでもやってくる。アッラーが彼を崇拝行為から遠ざけませんように。しかし、彼の家には礼拝を行なわないい子息がいるのだ。こういう状況に対して彼の心は苦しめられない。それなのにモスクでは、細かい問題について議論する。次世代を担う子供たちは堕落し、戸惑っている。その中に彼の息子も娘も孫もいるのだ。しかしそういうことを思い悩む代わりに、悲しんで何らかの手段を模索する代わりに「モスクでは死体は長いこと待たせられるべきではない」とか「どうしてアザーンの後に純正章を読まないのか」といったような細かい問題を議論する。こういった人たちは、葬儀の後の七日目、四十日目、五二日目の夜の行事は欠かさずに行なう。木曜日の夜に婚礼を更新し、悔悟の集いを行なわないければ、あなた方を襲ってくる。家の最もいい位置にクルアーンは置かれているが、しかし、その家では誰もそれを全く理解していない。こういった状況も、悪魔の右側からの打撃、それ以上に右からの襲撃である。
8.疑念には、意義のある側面もあるのだろうか
そもそも疑念は、先にも触れたように、多くの人において、特に繊細な性質において、死の時まで昇る要因となりえる一つの力である。あたかも時計のぜんまいのように、人の心も疑念によって巻かれている限り常に作用し、先に、さらに先にと彼を導く。なぜならそれによって試練と努力が死の時まで続けられるのである。健全な信仰を持ち、崇拝行為を果たし、我欲を管理下においたムスリムに、この「最大の試練」を受けさせ、彼にイスラームの戦士としての善行を獲得させる源が、疑念なのである。
別の一面からも、疑念は人を常に覚醒させ、注意深く保つ。信者が、なすべきことをなしえ、状況を克服したことによる安らぎや安堵のうちに、眠ることを知らない敵である悪魔の穴の一つに落ちてしまわないよう、常に油断ない兵士のように注意深くいられる。病人はその病気のために、アッラーに乞い、願うように、疑念を持った人も、疑念の現われが生じるたびに「ああ、主よ」と言い、自らを災いから救い、発展させるのだ。そして、罪が入りえない城砦の中に入り、救われる。先に示したように、疑念を増幅させ、害のある状態にさえしなければいいのだ。
9.疑念から救われるための実践的対処法
疑念は信仰の強さからくるものである
まず、これを明らかにしておきたい。疑念とはそれほど恐れられるべきものではない。なぜならそこに信仰があるから、疑念が起こるのである。教友の一人が預言者ムハンマドのもとに来て「アッラーの使徒よ、私は疑念に取り付かれているのです」と言った時「恐れられるべきものではない。それは信仰の本質であり、信仰の強さからのものだ」とおっしゃられていた。悪魔は、あなた方に信仰の鉱脈、崇拝行為という宝庫、礼拝や教えへの奉仕という宝石があることを知っているからこそ、海賊のようにあなた方を攻撃するのだ。海賊行為は、海で行われるものについては歴史に埋もれてしまったかもしれないが、悪魔という観点からは、それは預言者アーダムから始まり、最後の審判の時まで続くものなのである。
海賊が、宝を積んだ船を襲い、埋蔵物のある島を攻撃するように、悪魔もムスリムの、信仰という宝を秘めている心を攻撃する。そもそもそれは、空っぽの、乾ききった心には用がないのだ。そういうものには疑念の矢を射ることもない。泥棒ですら裕福な家を狙う。東西の不信心者や残虐者もそうではないだろうか?
疑念に陥ったムスリムは「悪魔はあらゆる攻撃に敗れたのだ。だから今、信仰やイスラームに対する疑念や疑いによって私を惑わし、私の宝に手を伸ばそうとしているのだ。これは彼の最後のあがきだ。いつか、私からは何ももぎ取れないことを理解し、去っていくだろう。私の家の戸口に山賊がやってきて、何日かねだった後、去っていくように。もし去らなかったとしても、扉は彼に対して閉ざされているし、私を守る城砦はとても堅牢だ。アッラーのお許しによって、私に対して何もできない」と考えなければならないのである。
疑念は心の産物ではない
心が不快に感じるのであるから、疑念は心の産物ではない。もしそれが心の産物であったなら、心はそれを不快に感じることもなく、不安を感じることもなかっただろう。そしてそういう心には、悪魔も用がなかったことだろう。
心が不快に、不安に感じるのは次の理由による。すなわち、心は疑念を承認しておらず、その持ち主でもない。疑念との間に意義、特性の面からつながりがないため、心は疑念によって不快を感じるのだ。人が示している反応、体温の上昇やひそめられた眉、頭痛、食欲が失われること、などからこれを理解することができる。あたかも、体内に入った細菌や、この細菌の生物学的構造に与える害、そこから生じる支障に対して体が対抗勢力を作り出し、抗生物質が投入され、重大な対立が生じていることの結果として体温が上昇するようにである。そう、悪魔が心に投げ込んできた、私たちからなるものではないこの異種の空想、思想、そして疑念に対して、私たちの精神的構造があたかも免疫を作り出し、この災いと悪の軍に対して対抗しているのであり、その結果私たちの熱は上がり、心は苦痛を感じるのである。もし私たちの体が何らかの対抗を示すことなく、毒蛇を見つけたヤギのようにすぐに降参してしまっていたら、エイズウイルスに対して免疫が降参してしまったように、私たちにおいてももう終わりだということになる。もたらされた疑念に対して私たちの心、信仰が対抗しなければ、その時には疑念もなく、熱も上昇しない。これは「いらっしゃい、好きなようにしていいですよ」と言うことであり、悪魔が望むものもこれなのである。
疑念に陥った心は、悪い人がごみを投げ込んだ泉のようである
この問題を、次のようにも考えてみることができる。澄みきった、清らかな水源がある。その成分、味、そしてそれがもたらす健康の面から、ザムザム(大天使ジブリールによって、預言者イブラーヒームの息子イスマーイールの足元に噴出させられた泉)の水のような水源である。皆に知られ、有名な存在になっている。世界的にも認められている神聖な泉である。ここに、悪意ある人がやってきて、ひそかに泉に近づき、この水の中に墨やちりやごみを入れて、逃げていった。あなたはこれを見て「なんということだ」と言うだろう。「私の泉は干上がってしまった。だめになってしまった。汚れてしまった。もうだめだ!」
しかし、真実はこうではない。流れ出る水はそこに投げ込まれたごみを流し去り、その清らかさを守るだろう。あなたがたの心、信仰が清らかな泉であれば、それを濁らせるために投げ込まれたちりも、土も、それには何の害も及ぼさないだろう。それらのちりも、土も流されていき、あなたの水源はいつでも清らかなままであろう。つまり、その濁りは泉によるものではない。そう、疑念にとらわれた心も、このようなものなのである。
疑念は、意志によるものではなく、またそれが実践に移されていないならば人はその責任を問われない
ご存知のように、責任が問われるためには意志や意識が伴うことが条件となる。動物や、精神に異常をきたしてしまった人、知能や意識が正常の状態でない人は、責任が問われることはない。だから、疑念について意志が伴っておらず、また計画を立てた上で「来なさい」と、心や思考の扉を私たち自らが開けているのでないなら、私たちは責任を問われない。ただそれを、実践に移したり、望んだりしなければいいのである。意志は、よく、このようにやってくる疑念を自らの前に見出すが、それに対して対抗することができない。なぜならそれは招かれることなくやってくるからである。さらに人は、連想によってその意志に関わらず目にした、あるいは耳にした、読んだ物事からも、何らかの記憶、思考に陥ることがありえる。そもそも、こういったことから逃れることは不可能であることが多い。なぜなら人間のこの状態は、その天性のあり方によるものであるからだ。
疑念は、人の前進の妨げにはならない、くもの巣のようなものである
疑念は、それ自体の不調和が認識された場合、無害なものとなる。クルアーンでは「本当に悪魔の策略は弱いものである」(婦人章4/76)と宣言している。そう、悪魔の策略は存在する。しかし無に近いものなのだ。例えば、二つの壁の間を通り抜けようとしている。そこであなたは、くもが網を張って道をふさいでいるのに気がつく。その場合、あなたは引き返すだろうか、それとも歩き続けるだろうか? くもの巣はあなたの前進を本当に妨げるのだろうか? 当然そうではない。あなたはそれを障害とは見なさないし、そこに何もないかのように歩き続けるだろう。
預言者ムハンマドは、悪魔は、逸脱や憎悪、罪や悪事を犯させない、また誰かの手をとって彼に罪を犯させることはできないと述べられておられる。悪魔が行なっていることは、ただ、悪を飾り立て、きれいに見せかけ、魅力的なものであるかのように示すことだけである。善と悪を創造されたのも、逸脱や導きに人を行かされるのもアッラーであられる。悪魔の疑念は、色鮮やかな泡によって飾り立てられ、造られている宮殿のようなものである。しかしその下には深い穴がある。何キロも続く深い穴である。
来て、いずれは去っていくものだということが認識されたなら、疑念は無害となる。疑念は、息を吹きかけると飛んでいってしまう毛のほどのものである。一時的に集まっても後に散らばっていく雲にも似ている。その後には雨も、風もない。それは飛行機が一瞬落ち込んでしまうエアポケットのようなものである。泣き叫んだり、嘆き悲しんだりするほどのものではないのである。
疑念は、それにこだわったり、悩みとしたりしない限り一切害をもたらさない
あなたがたの思考に関わってきて、それを汚すようなものではない、とあなた方が認識したならば、疑念は害をもたらさない。疑念は、幻想の鏡の中に消えていってしまうほど弱く、一時的な痕跡にすぎない。しみや汚れを付けることのない、一つの見かけ、そして非常にささやかな反射からなるものである。思いや想像に浮かんでくるものがよい源からのものであれば、それは思考や想像に光を与える。しかしそれが悪い源からのものであるなら、それは思考や想像や心に影響を与えず、汚染もしない。害を与えることもない。あなたが手にしている鏡に、へびが映っていたとして、鏡の中のそのへびはあなたの手に害を与えるだろうか? あるいは鏡に映っている汚物は、あなたの手を汚すだろうか? 鏡に映る炎は、あなたの手を焼くだろうか? あなたのおなかの中にある汚物が礼拝に、ダイヤの周囲の炭の粉がダイヤに害を与えないように、悪魔は外面も内面も真実の一つの存在であったとしても、それが放つ矢や、それが送ってくる幻像は真に存在するものではなく、一切の害はない。
私たちがこだわらず、興味を持って追求せず、それを認めず、些少なものと見なし、それを増幅させず、悩みにすることもなければ、疑念には何の害もない。それを常に上から見下ろし「アッラーのお許しによってこの下から逃れ、私の上からどかせよう」というのだ。
疑念は、害があると思い込まれた場合、害を与える
これまで説明してきた事項と逆の行動がとられた場合、疑念は害をもたらしえる。そう、疑念は有害だと思い込まれた場合、有害となる。こだわっていじくりまわし、好奇心にかられてそれを追い掛けた場合、有害となる。それは大きいものだと見なされることによって、重きを置くことによって肥大し、風船のようにふくらみ、私たちを飲み込んでしまう。一つの蜂の巣の中には何百もの蜂がいるが、あなたは気にせず巣の前を通り過ぎるだろう。疑念に対してとるべき行動もまさにこれなのである。
悪魔は、もろく一時的な幻影を私たちに送ってくる。私たちがそれに興味を持ってそれを作用させたならば、その小さな幻影は、空想の映像館で何時間も続くフィルムのようになる。しかし私たちはそれに気づくこともできない。特に一人でいる時、特に若い時代、しかも我欲が満足するような幻影、肉体を影響下におくような幻影があれば...。そう、人はそれを受け取り、それを想像の世界で興奮をもたらす映画としてしまう。しかし実際のところ、悪魔からもたらされたものは、最初のシーンのみなのである。だから、最初の釣り針に引っかからず、それを活躍させないことが必要なのだ。悪魔が我々を動かし、それによって私たちが見ている幻影を真実に変えてしまうことがないように。私たちが、その小さな幻影の犠牲にならないために。
繊細で神経質な魂は、悪魔の疑念に重きを置いて被害妄想を抱かないようにしなければならない
疑念は、繊細で神経質な魂において、より有害な症状、経験となる。そういった人は、疑念がもたらされた時、害をもたらすのではという不安によってうろたえ、被害妄想に取り付かれる。それからそれを心で、思考で、そしてその注意深さによって増幅させ、自分のものとしてしまう。そのうちそれを自分の性格のようにしてしまい、それと一体化する。これは、悪魔の前に失望し、完全にその害を被ったことを意味する。こういう状態に陥った人は、希望を喪失した状態で「もはや私はだめになってしまった」と言い出し、敗北を認める。そうしてその人の中心部分が悪魔の攻撃に対して無防備となり、それから人はそれを放棄してしまう。一人の司令官を考えてほしい。右前方にいくつかの金属的な輝きを見て、敵がそちらから攻撃してくると思い込む。そして軍隊の右側の部分をそちらに向かわせる。左側にある山の方でも木の葉が揺れ動くのを見て、敵が隠れている、攻撃してくると思い込み、左側の部分もそちらに向かわせる。結果として中央部分が敵の進攻や殲滅攻撃に対して無防備で、まさに狙いやすい状態となっている。そもそもこれは、戦術を知らず、敵を理解していないことを意味する。あなたがたも見ているように、悪魔のもたらす疑念にはマッチのすすほどの価値もないのに、人はそれを肥大させ、手に負えないものにし、わが身を襲わせるのだ。そう、注意しよう。それを私たちの想像や思考で増大させないように。
疑念の影響下から、崇拝行為によって遠ざかり、精神的影響から抜け出さなければならない
疑念に対して、あなた方を疑念の影響下から遠ざけるような行動をとらなければならない。ハディースでも語られているように、このようなことが起こった場合、つまり立腹した場合、立っているなら座り、座っているなら横になり、あるいはウドゥー(礼拝の前にする小浄)をして二ラカートの礼拝をし、内面世界に変化を起こさせなさい。さらに、その霧を晴らすべく、他の有効な行動をもとってほしい。意志をしっかりさせ、あなたの心理に影響を与えることができ、望まないのに落ち込んでしまったエアポケットからあなたを助け出してくれるような、あるいはあなたが巻き込まれてしまった電流からあなたを引き離してくれるような、小さくてもかまわないから何らかの手段を見出してほしい。預言者ムハンマドは、ある戦役からの帰還時に、疲れから目を覚ますことがおできにならず、朝の礼拝のカダー(定められた時間内に義務の礼拝を行なうことができなかった場合、その礼拝を次の礼拝の時間で行なうこと)を行なってしまった[i]時「この地をすぐに放棄しなさい。悪魔はここを支配し、統治している」と命じられた。そう、常に悪魔の影響範囲に対して注意深くいなければならない。そして知らぬままにそこに入り込んでしまったのであれば、即座にそこから遠ざからなければならない。のんきさや不注意さは悪魔や悪魔に関わる物事を招くものであり、アッラーを祈念すること、宣言すること、結びつきを保つことはあらゆる災いの力に対抗する防護であり、さらには反撃ですらある。例えば、預言者ムハンマドは、あるところで、悪魔がアザーン(礼拝への呼びかけ)の声からいかに逃げるかということを語っておられる。つまり悪魔は、アザーンやそれが含む意味に対して耐えることができないのだ。だから、悪魔が疑念によって攻撃してきたなら、私たちもアッラーと使徒との結びつきを強くし、神聖な意識の中にいるようにしなければならない。預言者ムハンマドの天への上昇(ミーラージュ)を思うことは、疑念や、特に礼拝中に頭に思い浮かぶこと、さらにはあくびさえもナイフのように切り捨てるだろう。
私は何人かの若い友人に、以下のように話したことを記憶している。「悪魔があなたの前に現れて、ハラーム(宗教上禁止)であるものを見るように望んでいたとしたら、次のように考えなさい。『それを見ることによってあなたは何を獲得するのか? あなたがそれを見たとして、それは無益なものである。もっと先に進んでみたとしても、やはり無益なものである。しかもそこには信仰があなたにもたらす後悔や苦しみがある。このように無益で苦しみを伴い、暗黒な結果をもたらすその視線に何の意味がありえようか』」そもそも、人が自らをこのように説得している時、そのハラームの対象物もとっくに消え去っているのである。
思い浮かぶ全ての疑念、虚飾を伴うすべての光景は、将来手にすることができるであろうもっとすばらしい物事を考えることによって取り除くことができる。クルアーンの多くの箇所では、この世での生活が一つの遊び、戯れに過ぎず、真の生活とはあの世におけるものであること、真の祖国とはあの世における居場所であることを語っている。(イムラーン家章3/185、蜘蛛章29/64)疑念はあなたに、ほうれん草と香草を見せかける。しかしアッラーは「様々な果実が手近にある」(真実章69/23)と仰せられておられるのだ。この世界でのように、消化不良を起こしたり腹痛になったりすることもない。この世界におけるハラームへの視線からもたらされる疑念も、同じように対処されえよう。
ただ私たちは、この世におけるあらゆるきれいなものに対し「望む人にはそれをお与えください。私にはただあなたが必要なのです」と言おう。もし、夏場の足を焼くような暑さを言い訳にして、悪魔があなたを、教えのための奉仕や布教の目的で外出するのを妨げようとし、他の人たちにもそうしたように、海岸や涼しい遊歩道にあなたを送ろうとしているのなら、地獄はもっと熱いのだということを思い起こさせよう。あなたの心を射ようとしていたその疑念は、悪魔ののどを詰まらせるだろうと私は考えているのだ。
さらに「アッラーの使徒とその誠実な友たち、そして彼らに続く良い人々が私たちを待ち続けているのに、私がこの辺でうろうろして、無益でふさわしくない状態でいることは正しいだろうか」と、悪魔が吹き込もうとしているのんきさ、無気力さといったものによる疑念を取り除くことが可能になると私は確信している。
礼拝の前にする小浄や礼拝における「不足があっただろうか」という形での疑念にも、重きを置く
べきではない
「ウドゥーや礼拝で間違いや不足があっただろうか」という形でもたらされる疑念にも、重きを置かないことが必要となる。このような疑念が最初に起こった時は、そのウドゥーや礼拝は再度行われてもよい。しかし何度も起こるのであれば、つまり洗うべきところを洗ったのかどうか繰り返し疑問を持ってしまうのであれば、その人は疑念を生じさせることなく、そこは洗ったのだと認めて、礼拝を始めなければならない。そしてまた、礼拝を何ラカート行なったかという点で疑念にとらわれたのであれば、礼拝が完全であるという確信を持って行動しなければならない。
疑念を放棄するには、行為を先に進めることである。疑念にこだわってしまうのではなく、まさにその逆の方向に進まなくてはならない。重きを置くことなく、行われたことが誤りであったとしても「正統四法学派[ii]のどれかには合っているだろう」といって済ますことの方が、罪を犯さないという点においてより適していると確信している。ここでの意図は、悪魔の仕事を断念させ、疑念を退けることである。
[i] 預言者ムハンマドは礼拝のカダーを行なったのはこの時だけである。
[ii] 訳者注 正統法学派は、四つの主な法学派(ハナフィー、シャーフィイー、マーリキ、ハンバリー)を採用している。法学派の違いとは、教義・信仰に関する根本的な問題ではなく、イバーダート(礼拝、断食、巡礼などの宗教儀礼)とムアーマラート(生活一般の規範)の詳細点である。
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