運命とは

1.クルアーンで説明される運命

「運命」(カダル)とは、アラビア語で計ること、形を与えることや、形成することなどを意味する。詳細な内容に入る前に、運命に関する諸章句を紹介することが有益であろう。

「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである」(家畜章6/59)

「天と地の隠されたことは、等しく明瞭に書冊の中に(記されて)ある」(蟻章27/75)

「本当にわれは死者を甦らせ、またかれらが予め行なったこと、そして後に残した足跡を記録する。われは一切を、明瞭な記録簿の中に数え上げている」(ヤー・スィーン章36/12)

「いやこれは栄光に満ちたクルアーンで、守護された碑板に(銘記されている)」(星座章85/21~22)

「かれら(不信心者)は、『もしあなたがたの言葉が真実なら、この契約は何時(果たされるの)であろうか』と言う。言ってやるがいい。『本当にそれを知るのは、アッラーだけである。わたしは公明な警告者に過ぎない』」(大権章67/25~26)

カダルの他、しばしば使用されるもう一つの用語は「カダー」であり、一説によればカダルと同義語であるが、通説によれば、カダルはアッラーの神意、カダーはその神意の施行、執行や決定等が実行されることを意味する。

次に、カダルについていくつかの定義を挙げる。カダルとは、無限の知の持ち主であられる、時の三区分(過去・現在・未来)を一点であるかのように見通されるアッラーが、ミクロ世界からマクロ世界まで、微粒子から星の系統まで、人間とその将来も含めて、最小から最大に至るまでの全世界を、知において、知的様態として、分類と確定して計ることである。また、カダルとは、アッラーが、これらの知的様態を潜勢態(可能態)から移動させ、現勢態(現実態)において創造するために、あらかじめ全てを「明確なり書冊[i]」において記して確定することである。

さらに、カダルとは、人の意志とアッラーの創造の一致である。つまり、人は何らかの事をし始め、自由意志によってその事に携わった時、アッラーがお望みになればその事を成就させられるのである。従ってカダルとは、人間の自由意志とアッラー自身がお望みになられることを、それが発生する前に無限の英知によってご存知であるアッラーが、実現するものとして定めたことを指す概念である。

人の自由意志と獲得力が無いとしてカダルは考えられないのである。この世界は、運命、計画、プログラム、基準、均衡によって支配されている。

「またわれは大地を伸べ広げて、山々をその上に堅固に据え付けた。そこで凡てのものを(妥当な)均衡の下に、生長させる」(アル・ヒジュル章15/19)

「かれは天を高く掲げ、秤を設けられた」(慈悲あまねく御方章55/7)

この世界のいたるところまで、カダルが支配的である。それ以外のものを考慮することができないほどである。世界を創造されたアッラーは、種の分裂や人間の誕生から星や銀河の誕生までの万物のなかに、無限の英知によって計画やプログラムを確定され、ある運命を与えておられる。過去から今に至るまで、世界中の学者や研究者たちが何千点の作品によってこの均衡、つりあい、そしてこの神意の通訳を務めようとしてきた。一部のマルクス主義者でさえ「決定論」といったような様々の名称のもとに承認していた普遍的原理は、敵も味方も、信仰する者もしない者も皆がこの世界に一つのプログラムと運命が存在することを承認している、という観点からとても重要である。ここで言うまでもないがマルクス主義者たちが認識していた意味での決定論は、私たちのテーマであるカダルと違うのである。同論をここではただ、異なる意味であっても、カダルという観点から取り上げてみただけである。とはいえ、イブン・ハルドゥンのような一部のイスラーム学者も、ある意味、決定論に賛同しているように見られる。最近の西洋の思想では、例えば実証主義において見られるように、この決定論を社会生活にまで拡大している。しかし私たちは、このような諸主義主張を巡って、イスラームの主流派の思想に従い、「おそらく」と言う条件を付けて語る。その範囲内において私たちは、人の意志をも含むあらゆる事物において、普遍的なあるカダルが支配していることを信じるのである。上述のように、様々な観点から捉えてカダルをよりわかりやすくするために、下記において、いくつかの比喩をあげる。

そう、一つの時計にしても、一つの建物にしてもそれを設計する際、私たちはまず設計図や計画図を作成し、検討や検証を行ない、細かい基準を用いて、将来現れる形について評価する。それと同様に、この目が回るほどのシステム、原子の世界と人々との間に、そしてそれ自体の中に存在する結びつきが、一定の計画やプロジェクトの存在しないところにあるということは考えられるだろうか? 時計のように壊れることもなく、最も小さなものであれ衝突などを起こすこともなく、実現され続けるこの物質世界の均衡やつりあいの,千分の一ほどのシステムでさえ、巨大なコンピューターを駆使しても実行できないのに、この想像を絶する大きさと華麗さを伴うこの巨大な世界を、計画や設計を伴わないものだと見なすことは可能だろうか?

もう一つの例えは、種に関するものである。種は、カダルを内在する小さな箱のようである。将来現れてくるあらゆる場面と共に、その木の一生がその種には記録されているのである。構造的に皆同じように見える、そして同じような単純な物質から成り立っているように見える多くの種が地に落ちると、様々な花、無数の種類の植物、木が出現するのである。種は、運命がそれ自身のために裁断した、あるいはそれ自身のために定められた寸法の中で、科学的、精神的なあり方、形をとり、それ自身に特有の姿、衣装を身に着けて土の上に現れ、その姿を示す。何千もの仕立て屋が何年も仕事を続けたとしても、この多数の花や植物は言うまでもなく、一本の木のためにさえも、このような衣装を縫い上げることはできないであろう。しかし、無数の木々が、おそらくは何十万年もの間、寸法や裁断や縫製の誤りもなく、あたかも特別にあつらえられた衣装を次々に脱ぎ着してきたのである。これを行なっているのは木々自身であろうか、それとも、それらにその型や形、運命を与えられる偉大な計画者であろうか?

特定の運命やプログラムに従うものであるがために、一滴の精子は決して偽りを語らない。染色体の語ることば、RNAやDNAの違えられることのない任務、細胞たちの布告によって、口、舌、唇、目、眉、耳、容貌、感覚、能力といった多くの局面を経て「私は人間になる」と言い、そして人間になるのだ。

宇宙物理学者によれば、宇宙のあらゆる地点においてどの様な存在があるのか、それらの地点においてどのような磁力の影響がどういう形で存在するのか、わずかではあるがわかっているという。なぜなら幾何学的な位置や力の強度は前から存在していたからである。コンピューターによる発見からも明らかであるように、原子から銀河に至る宇宙において創造されたあらゆる被造物は、その創造において共にプログラムされているのだ。そう、全てはまず『保護された碑板』に記され、確定されたのである。

2.夢と運命

正夢もまた、運命の存在の論拠(証拠)である。魂に関する項で既に述べたように、将来起こる出来事を前もって夢で見るということ、その時が来るとそのとおりにことが起こるということは、あらゆる出来事が前もって定められていたことを明らかにするものである。そう、私たちは夢の中で、私たちの生の書の一ページを前もって読み、それから自分が読んだものが実際に起こるということを目撃してきている。

クルアーンにおいて、預言者ムハンマドや聖人たちが将来起こることを知らせていることもまた、全てにおいて運命が支配を行なっていることを示している。もし、記されることもなく、明らかにされることもなく、決定もされていないのであれば、何をどうやって知るというのだろうか?。

3.アッラーの無限の英知

アッラーは、その無限の英知によって、過去や現在や未来を、それらが一点であるかのようにご存知であられる。

意志と運命との関わりをさらによく把握するために、全てをご覧になられるアッラーの無限の英知について、少しでも理解できるべく、いくつかの章句を例として示したい。

「アッラーはかれらの行なっていることを知っておられる」(御光章24/41)

「自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる」(雌牛章2/216)

「かれは天にありまた地にある一切を知っておられる」(イムラーン家章3/29)

「地上の凡ての生き物で、その御恵みをアッラーからいただいていない者はない。かれはそれらの居住所と寄留所を知っておられる。凡てはっきりと書物に(記されて)ある」(フード章11/6)

「かれは、かれらの前にあること、後ろにあることを知っておられる。だがかれら(人間)の知識では、それを計り知ることができない」(ター・ハー章20/110)

「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる」(家畜章6/59)

「仮令海が、主の御言葉を記すための墨であっても、主の御言葉が尽きない中に、海は必ず使い尽くされよう」(洞窟章18/109)

これらは、この宇宙という書物が示している真実に他ならない。この宇宙において、最も大きい世界から最も小さい世界である原子まで、全てに綿密な数学的均衡や基準が存在することが、無限の英知を示しているのと同様、学問のほとんど全ての分野において記されている何千もの本もまた、同じ真実を示している。ついこの間まで、医学の分野においては全身の解剖に関して一冊の本しか書くことはできなかったのに、今日では目や、肝臓や、心臓、つまり全ての器官、さらには細胞についてまで、それぞれの書物が出されており、大学でもそれぞれの分野、科、クラスが形成されている。さらに何千年も、海をインクに、木々をペンにして、クルアーンや宇宙という書のための図書館を満たすほどの作品が書かれたとしたら、ペンもインクも尽きるであろう。それでも語られたものは、一羽の鳥のくちばしにかかる、大洋の中の水滴ほどのものであるか、もしくはそれほどのものですらないであろう。

鏡を見る時、あなたの顔が、人生において見知ってきた多くの顔のどれ一つにも似ていないということを考えたことがあるだろうか。指紋や目の構成についてはどうだろうか? これから明らかにされるであろうどれほどの部分において、あなたのものが他人のものと異なっているのか、あなたは驚かれることだろう。そう、注意深く調べれば、木や葉においてさえ大きな相違点を見出すことができるだろう。雪の結晶を特殊な機械で成長させ、研究している学者たちは、雪の結晶がそれ一つとして他の結晶と同じではないということ、水の分子の数や形という点で異なっているということを明らかにしているのだ。

これら全ては何を意味しているのだろうか? 一つの顔、指紋が、その同じ瞬間に生きている、あるいは将来生まれてくるあらゆる人の顔や指紋と異なった形で現れてくるためには、無数の人を顔や指紋によって知り、他のものと混乱させず、忘れないだけの英知の持ち主の存在が必要となる。私たちが友人たちの顔を、守護された碑板のとても小さな一つの模型のようである自分たちの記憶にとどめ、友人を見た時にその顔によってその人と知ることができるように、―比喩が誤りでないことを願うが―アッラーも無数の人々の顔や指のつくりをその無限の英知によってお知りになり、ずっと以前に運命の書に記されておられたのである。私たちの記憶にとどめられた人生の小史は、記されたことが実現したことによって成り立つように、時が過ぎて実際に出現する顔や指紋もまた同様に、記されていたことが創造されることによって起こったものである。

アッラーは、無限で、全てを包括する英知によって、あらゆる過去と未来を一つの点であるかのように知られ、ご覧になられる。全てを崇高なる玉座からの視点で、―比喩が適当なら―頂点から、あたかも一点の中の出来事のように知られ、確定される。例えば、山で、木の下であなたが本を読んでいるとしよう。その時には、時と空間の制限の中にいる。しかし、魂に関する項で触れたように、物質という状態から離れ、上昇し始め、山の頂上に到達したとしよう。頂点においては、円錐形の視野が開け、山の前方も後方も見ることができる。このように、アッラーも、―あらゆる物質的基準や解明を超越したところで―過去や未来をあらゆる要因や結果と共に、私たちが行なった、そして行なうであろうあらゆる行動―意志も含めて―包括的に無限の英知によってずっと以前からご覧になり、ご存知であったが故にそれらを確定され、定められ、私たちもその時がくると自分の意志でそれを行なっているのである。

毎年三百六十五日の礼拝の時間が分単位で前もって明らかにされ、カレンダーに印刷されていることを私たちは知っている。カレンダーによる時刻表に従って、その時がくるとアザーンが読まれ、私たちも自分の意志でアッラーの前に手を組み合わせ、礼拝を行なう。これも、将来おこなうであろうイバーダが、ある意味前もって知られ、確定されたことの結果ではないだろうか。

4.重要な注意喚起

「過去や災いについては運命、未来や罪については意志という観点から見なす」このような見方をとると、過去において人に訪れた災いや困難に対して「あれは定めだったのだ」と受け入れることができ、失望に陥ることがない。未来に対しても、決定というポイントにおいて責任を意識することとなる。

過去や災いに対して運命だという見方をとらない場合、希望をくじき、打ちのめされるような出来事が起こるたびに狼狽し、常に自分の状態に不満を感じ、後悔し、結果として罪や放蕩の沼に陥ってしまうことがある意味避けられなくなる。未来を意志という観点で見ることができない人が、悪いことや罪を運命のせいにし、陥った放蕩の沼にさらに深く入っていってしまうことも、また同様に避けられないものとなる。人が「運命は過酷である。運命、運命の戯れ...」と言うような言葉で自らの定めに不平を言うことがいかに災いを倍増させ、精神世界や精神活動を色あせさせ、やせ細らせるものであるにしろ、意志を働かせなくなることもまた、同様に大きな誤りであり、自ら思考や心を我欲や悪魔や罪へと明け渡していることに他ならない。だから、一つの受け皿に意志、もう片方の受け皿に運命が載せられている秤を、常に釣り合いのとれた状態に保ち、私たちの生き方をそれに合わせて調整していかなければならないのだ。

要するに、運命を信じることは完全なムスリムになるための必須条件である。アッラーを、預言者ムハンマドを、預言者たちを、天使たちを、啓典を、復活を信じるのと同様に運命をも信じなければならないのだ。この信仰の基本は、永遠の生を生きるために、ここで生きる生においての規則であり、柱である。これらの規則のどれかを揺さぶってしまった場合、私たちが築きあげようとしているものを揺さぶり、さらには壊してしまうことになる。クルアーンやハディースは、運命に関して非常に重きを置いている。復活についで最も重きを置かれている事項は、おそらくはアッラーのお望み、神意、定めである。運命は多くのハディースで、他の信仰基本の中においてではなく、その意味や重要性が鑑みられ、アッラーの存在や特性が語られている部分で、あるいはその範囲内で、取り上げられている。これは、次のことを意味する。すなわち、アッラーを、アッラーの望まれる形で信仰しようとするムスリムは運命をも信仰しなければならない。他の言い方をするなら、運命を信じることはアッラーの存在を信じることにおける必要条件である。つまり、運命を信じない者はアッラーの存在や偉大さを必要な形で信じているとは見なされないのだ。

人々はそれなりに運命を信じる。なぜならアッラーに関する知識、アッラーとの間にある結びつきは様々であるからである。まだ初歩的な段階にあること、あるいは初歩の段階でとどまってしまっている人は、運命を宗教上の一つの定理として、真似をする形で、そうしなければならないと感じているために、そしてそれを条件として、信仰しなければいけないがために信仰する。進歩し、深みを増し、最終段階にまで達した人は、その良心の深いところで、あらゆるものの上にアッラーのなされたことを見出すという段階に達しているため、聖なるハディースで言われている「わたし(アッラー)はしもべを愛すると、わたしは彼の耳となり、目となり、手となり、足となる」[ii]という意味の顕示として、一切その逆を考えることなく「まるで、私の指さえもアッラーが動かされているのを見ているようだ」と言うだろう。これもまた、理解、段階、観点によるものである。

運命は、知や行動ではなく、心や状態の問題である。蜂蜜を全く味わったことがない人に、味や成分や効能などで蜂蜜を説明したところで、あるいはそのテーマでどれほどのものを書いたところで、それは、蜂蜜の味を知るという観点からは、口に入れる一口の蜂蜜ほどの効果を持たない。アッラーの存在、預言者やクルアーンに関する事項を、知に基づく解釈によって語ることは可能ではあっても、運命を、人がその意識によって、アッラーの御業を見ているかのように知るためには、心のページを繰ることが必要なのだ。

運命は、人の足を滑らせうる、微妙な問題である。人が、とても滑りやすい地面で、いつでも滑って倒れてしまう可能性があるように、運命もまた、滑って倒れてしまう可能性のある、滑りやすい地面という特性をもつものである。だからこそ、一部の学者は生徒たちが運命について話すことを禁じ、「あなたは話しているではありませんか?」と言う者に対しては「話すには話しているが、頭上に一羽の鳥が留まっているような感じで話している。それを逃がしてしまうことを私は震え恐れているのだ」と答えているのだ。[iii]

運命に関して、何らかの考えを説明し、あるいは何らかの考えを得るためには、次の四つの項目をよく理解しておくことが必要となる。運命に関するあらゆる事項が、この四つの項目によって解明できると私たちは確信している。

1.運命の諸段階(計画を立てるための知識、その記述、アッラーの御望み、創造)

2.アッラーの無限の英知(過去、現在、未来を一つの点であるかのように知られること)

3.自由意志(イラーダイ・ジュズィエ)(アッラーが人の選択のために与えられた意志)の意味、特性、その存在の根拠。

4.運命と自由意志の一致とその関係。

これらの項目を詳しく説明する

[i] 『明瞭な書冊』は、出現という一連の鎖(現れの段階において)の中で現れ始めた事物を、「有無中道の版」と「保護された版」と言われる、アッラーが定められた全てのことが天使たちによって記され、あらゆる影響から守られた書冊を意味する。

[ii] ハディース Bukhari, Riqaq 38; Musnad 6/256

[iii] 私たちは、時間と空間によって制限を受けているので、創造者と創造との関係に関する真の事実に到達することができない。また、私たちは永遠を知覚することができない。そして、この宇宙に関する真の知識をほとんど持っていない。しかし、私たちが、神とその特性に関する知識を把握することができるように、アッラーは、創造に関連するその顕示が、時間と空間の制限を受けるものとなることを許された。アッラーがそうなさらなければ、生命は存在することができなかっただろう。そして、私たちはアッラーと宇宙に関する知識を全く習得することができなかっただろう。したがって、私たちがアッラーのご意志および運命に関して述べてきたことは、時間や空間、物質によって制限されたこの生の領域からしか述べられていない、という観点でとらえられる必要がある。

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