存在の起源

宇宙の本来のあり方と存在に関する中世ヨーロッパの概念は、カトリック教会の権威によって支持された。時がたつにつれて変化させられた啓典(聖書)を拠り所とし、近代科学は権威への脅威であると考え、そのため教会は、近代科学に対して激しい敵意を持っていた。その結果、科学と宗教の間の裂け目は広がり、それらは対立した。結局、宗教は、科学によって異質であると見なされる盲目的信念と慰めの儀式の領域に追いやられた。したがって、もはや科学は啓典の権威に従わなくなっていた。ダーウィンの進化論は、被造物が自らを起源とし自ら持続する、それはいつの日か完全に解き明かされるであろう法則に従い、それ自体が展開している一つの過程であるという考えを普及させた。

全ての科学者が、自然的要因もしくはいわゆる自然選択説がすべての現象について説明できると主張しているわけではない。この問題について議論する前に、私たちは、全ての預言者たちが、その活動した場所や時代にかかわらず、被造物の起源やその維持、そして人間と存在に関係する他のあらゆる重要な問題に関して、同じことを言っている点にも注目すべきであろう。多数の科学者が預言者たちと意見を共にしているのに対し、自然主義と唯物論を支持する科学者と哲学者は、彼らの説において大きく意見を異にしている。ある者は、命や意識と同様、創造性や永遠性をも物質によるものと見なす。他の人々が生命の起源を説明できず、機会や必要性といった概念に退くのにもかかわらず、一部の人々は、自然は永遠に自立自存していて、自然の要因と法則によって全てのことに説明がつけられると主張する。

次の部分では、神の存在と唯一性を明言することなく被造物について解き明かすことの不可能性について論じたい。

1.宇宙は自分で自分を造り出すことができない

存在が必須であるということは、存在しないことが不可能ということを意味する。存在が必須な事項であるもの以外はすべて、存在することと、存在しないことの可能性が同じである。存在が必須であることは同時に、それが始まりと終わりを持たないものであることを必要とさせる。

しかし、この世界で目にうつる全てのものは、猛スピードで終末へ向かって進んでいるのだ(脚注1を参照)。つまり、後から存在を始めたものの存在が必須であるということはないのだ。

そういう存在は、創造主を必要とする。必要とされる創造主と、必要とする被造物を同じであるとすることはただのたわごとである。創造主を必要とするものたちを創造した存在は、決して物質や物質的なものではあり得ないのだ。創造主はその存在が必須であるお方でしかあり得ず、そのお方こそがアッラーなのだ。

例えば、もし、ある物質が同時に自分自身を創造した力でもあるのならば、その力はどこに行ってしまったのであろうか。終わりのない存在ではいられないものは、始まりのない存在でもいられないということは明白である。だから、存在を超えたところで全ての存在を支配する、始まりも終わりもないあるお方がおられ、それがアッラーなのだ。

2.自然や自然の法則と原因は真の実行者または創造主になり得ない

原因と偶発性がこの宇宙を存在させることは不可能である。偶発性とは、規律に従っていないことを意味する。規律とは、確実で永続的なつながりを意味する。そこにはある計画、プログラム、秩序と規律が存在する。偶発性とは、でたらめさ、いい加減さを示すものである。学問では常に定理が用いられる。偶然の出来事は興味の対象ではなく、学問はそれと関わりあわない。学問や法則を、偶然と同等に見なすことは大きな誤りである。

言葉の上での議論はここまでとして、我々の判断に力を与えるある例を示し、このテーマを終えたい。

一人の人には六十兆の細胞が存在し、そして一つの細胞には百万程度のたんぱく質が存在する。一つのたんぱく質がそこに偶然存在するためには、1/10160程度の可能性しかない。一つのたんぱく質をもたらす理由が存在しない限り、この可能性のうちの一つが偶然実現する割合は、この数字の羅列が示すものとなり、それは不可能である。[i]

法則とその法則を定めた存在は同じではない。自然の法則を定めたのも自然の法則ということはあり得ない。そして、自然が自らにないものを他のものに与えることも不可能である。たとえば、人に見られる何千もの感情は、自然にはない。自然は、自らにないものをどうやって人に与えたであろうか。こんな可能性を誰が認められるであろうか。

自らよりも完成度の高いものを創造できない石や、土や、空気や熱や光からなる自然が、どうやって人間を創造できるであろうか。

(ア) 法則や原因といったものは事象と共に成り立つものであり、それと切り離して考えることはできない。物質を伴わずに存在することは不可能である。こういった原因を、事象の根本、真髄、創造主と見なすことはぺてんや詭弁そのものである。事象や作用を生み出すものは摂理や原因ではない。逆に、自然の法則や原因は、存在している事象からそしてその作用から、生じるものなのだ。
 星や惑星は、軌道上を確実な定理に従って移動する。しかし、ニュートンがそのことを発見したからといってこれが行われるのではない。創造され、そういう形で定められているからこそ、それを続けているのだ。ニュートンや、彼のような人々が行なったことは、この世界に事象と共に設けられた摂理を見出し、それに名をつけたということにとどまるのだ。

(イ) 摂理や原因群については、その存在も不在も、同程度の可能性をもつ。被造物を物質とする条件は、ここでも通用するのだ。物質は、その存在を決める理由なしで存在することができないことと同様に、摂理や原因も、それらをうながす理由がないかぎり存在はしない。これは存在し得ることの必須条件である。このように自分が存在することさえ理由を必要とするものが、それ自体創造者となることはあり得ない。なぜならそれ自体が創造主を必要としているからである。

(ウ) 摂理や原因は後に発生したものである。だから、始まりを持つものは終わりなしではいられないという言葉は、摂理や原因においても通用する。被造物が他の被造物によって創造されたと考えることは、被造物が連鎖しているとすることであり、これは迷信じみた思考である。
 摂理や原因は、物質と同様、無に向かって進んでいく。学者たちは物質が分散し、星が爆発し散ってしまい、そして最後の審判が実現するという結果をもたらす多くの理由を示す。有限であり、崩壊せざるを得ないような存在は、創造者ではあり得ない。

(エ) 摂理や原因の存在は、他の原因を必要とする。自らの存在の原因に自らがなることはできない、そしてそれ故にそれぞれが何かの結果である。この摂理や原因は、常に他の原因を必要としている。無限につながっていくことのない原因は、どこかで止まらざるを得ない。これは以下のような例で表すことができよう。すなわち、木の原因となっているものは種であるが、種の原因は何か?
また、鶏はその原因である卵に結び付けられる。卵はどの原因に結び付けられるべきか?
 あるいは、一つのりんごを考えてみよう。りんごの原因として花と種、花と種の原因として枝と幹、それらは種を原因とし、種は土の原因をうけ、土はそこに含まれる要素や熱、光、空気を原因とし、さらには地球と、地球の傾きを原因とする。こうして繰り返していくと重力の法則にも行き着くことができよう。しかしそれでも問いはそこで終わることはない。「それは何を原因とするのか?」という問いは続くであろう。しかし結果としてどこかでとどまる必要を我々は感じる。それこそが、創世以来の最初の原因なのだ。「で、その人は誰に?」と聞く必要のないお方である。そうでなければ、すべての原因にそれぞれの神を考えなければならず、それはあり得ないことなのである。

(オ) 摂理や原因は真の、そして独自の存在をもたず、仮想的な存在である。一部の摂理や原因は、真の意味での、そしてそれ独自の存在を持たず、仮定的で想像上のものである。たとえば先に述べた重力の法則について考えてみよう。この名称は、存在する事象の説明のためにつけられたものであり、目に見え触れることのできる、実験室で観察できるようなものではない。目に見えるもの、聞くことができるものは、それのもたらす結果に過ぎない。つまり摂理というものは実体を持たない仮想的な存在なのである。種の成長における法則、水の張力の法則、DNAの暗号の法則、磁力の法則などはすべてこの種のものである。ここで早速一つたずねてみたい。
 「摂理や原因が、真の、独自の物質的な存在ではなく、仮想的なこの存在である。それにも関わらず、摂理や原因が、この宇宙に存在する驚異的な質量を持つ無数の物体群を、この上なく細かい計算に基づいて、どのように秩序を保ったまま動かすことができようか」
 目に見えないということを神の否定の根拠として使う者たちは、存在の第一の要素だと自らが認めているこの仮想的な摂理や原因をも見ることはできないはずなのに、それを信じる。そして、偉大な創造主が持っていると認めないその力を、摂理や原因に見出す。これはもはや一つの思想としてではなく、思想の腐敗と見なすことができるであろう。

(カ) 摂理や原因は、必要なほかの摂理や原因とともに、結果がもたらされる原因というものを形成する。無から何かを存在させるといった働きは持たないのである。一つの細胞を存在させるすべての摂理や原因をまとめることはできても、それらから生命を持った一つの細胞を生み出すことは絶対に不可能である。以前述べたように、生命を持つ存在が一つ現れるためには、何千もの原因が意識を持ち、均衡を保った形で集合することが必要となる。これは、原因という存在にとって可能なことではないのである。

(キ) 摂理や原因と、それによってもたらされた結果との間に適合性はない。摂理や原因は、それ自体無力で、非力で、単純で、知能をもたず、意志もない存在であるにも関わらず、そこからもたらされた結果はこの上なく完成された芸術性をもち、価値のある貴重なものである。つまり、原因と結果の間には、原因と結果という関係はあるとしても、一致や呼応関係はない。五十キロの体重の男が五百キロのものを持ち上げたり、子供が指に結んだ紐でバスを引っ張ったりすると見る者に驚きを与える。同様に、我々の周囲で存在するものや出来事なども、そこにおける原因と結果の間の適合性といった面から見るならば、大きな違いや人を驚愕させるアンバランスさを見出すことができるだろう。
 たとえば、我々が指をドリルのように使って石や岩に穴をあけようとしたならば、ただ指がぼきぼきに折れるという結果以外何も得られない。なぜなら、石や岩に穴を開けるということと、我々の手の指の硬さの間に、適合性がないからである。しかし、絹のように細くやわらかい葉脈によって、植物は石や岩を割る。タバコの紙よりもさらに薄い葉は、激しい暑さに耐え、鮮やかな緑を保っている。果実や、花や、枝や、巨大な木のプログラムを内に秘めた種のシンプルさ、小ささを見てほしい。
 最も完成された被造物である人間について、そしてその全ての能力や才能を核に含む、しかし、イスラーム法学上けがれたものとされている故にそれがかかったところは洗わなければならないと定められている、精液について考えてみてほしい。
 甘い缶詰にも似たその果実と、イチジクの木の種について、その種が木に比べるとほとんど見えないほどに小さいものであるという点についてよく考えてみてほしい。そう、こういった多くの例を考えていくうちに我々は次のことを理解し、認識する。すなわち、摂理や原因は、それが非常に些少なものであるにも関わらず、常に完全な結果をもたらすのである。これほどに完成された堂々たる結果の源やそれを存在させるもの、その創造主が、このありきたりで単純で無力で一過性の摂理や原因であることはあり得ない。
 そもそも、原因群が、自身にない特質をほかの存在に与えられることはまったく考えられないことである。少し後には無となって消え去るのを目にしながら、人における永遠という感覚を一滴のけがれた水と結びつけるのはばかげたことではないだろうか。

(ク) 法則や原因は創造主ではありえない。なぜならそれらには相反するものが存在する。そもそもこの世界では、あらゆる存在にそれに相反する存在がある。ある意味、ものはその対である存在によって認識されるのだ。引くと押す、プラスとマイナス極、冷たさと熱さ、美と醜、夜と昼、物質的と精神的、これらはすべて対になるがゆえに認識される。認識されるために対であるものが必要であるようなものは、創造主でも神でもありえないのだ。
 芸術家は、その作品と同じ種類ではできていない。家を造る人と家は、同じ類ではない。そうでないと、すべてが自生しかつ自生しない、といったような、論理的に破綻した話になってしまう。

(ケ) 時には、すべての原因が整っているのに結果がもたらされないことがあり、これは、結果をもたらす力が原因群からのものではないことを示している。時には、原因が形成されていないのに結果がもたらされることもある。これらはすべて、そのことが行われるかどうかという点において必要性と意志がご自身にあり、その力にゆだねられているある存在を示す。その存在とは他の何者でもなく、ただアッラーであられる。

(コ) 原因群において最も優れ、能力のあるものは人である。物事や出来事などは従的な存在とされている。人は、知恵と、意識と、意志によって特性づけられる存在である。しかしこれらにも関わらず、最も無力で、非力で、多くの必要性を抱えているのもまた人間である。たった一つの菌に負けるし、この上なく些細な原因に対して降参してしまう。必要とするものは限りなく、その力は無に等しい。こうした特質を持つ人間は、どの原因に対して手を広げて祈るのだろうか? 必要としている無限のものを誰から求めるのだろうか? しかも、原因群の中で最も優れているのが人間自身であるならば。
 そう、人間にも、手を広げて祈ることのできるお方が存在する。そのお方とは、原因群の力を数珠の玉のように自由に動かされるお方、アッラーであられる。

3.創造主の唯一さにはどうして容易さが伴うのか?

すべてのものをある創造主の創造物とするのが、一つのものがすべてのものによって造られたとするよりとても筋の通った説明である。一つの微粒分子創造のためには全宇宙が必要である。全宇宙を創造できない存在であれば、たった一つ微粒分子でも創造することはできない。なぜなら存在するものの間にはお互いに必要性やつながりがあるからである。

管理という点で、ある軍隊を一人の司令官の命令の元に置くことは非常に容易である。逆に、軍隊の軍人の数だけ、同じ数の司令官に従わせるなら、作業も管理も困難となる。

全宇宙の創造をアッラーによるものとすることと、一つの分子の創造をアッラーによるものとすることには違いはないのだ。逆から表現しても同じことが言える。つまり、一つの分子を創造したのが誰であれ、全宇宙もその方が創造されたのである。もっと明白に言うなら、創造という点において、分子と天体、細胞と鯨、しずくと大海、一部と全体、などの間に差はないのである。天体を創造できないものは分子を、鯨を創造できないものは細胞、大海を創造できないものはしずくを、全体を創造できないものはその一部を支配し操ることができないのである。

[i]訳者注 硬貨を10個用意して、それらに1から10までの記号をつけるとする。ポケットにそれらを入れてみよう。そして、それらをよく混ぜよう。今度は、それらをポケットから出してみよう。一回出すごとに、出した硬貨はポケットに戻す。ナンバー1を取り出す可能性は1/10となる。ナンバー1とナンバー2を連続して取り出す可能性は1/102(百分の一)である。続けて1,2,3を取り出す可能性は1/103である。1から10までを連続して取り出す可能性は1/1010(百億分の一)というありえない数字になる。

とても簡単な問題を扱うこの例は、いかにこの数字が大きなものとなっていくかを示すものである。

私たちがこの世界で生きていくためには、非常に多くの条件が必要不可欠である。これらの全てが、この世界で、偶然に、同時に、それぞれ適切な形で存在することは数学的に不可能である。したがって、この世界には何らかの形での英知による指示があるに違いない。もしそうであるならば、それには何らかの目的があるに違いない。

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