安楽への執着

いかなる崇高な大義や真理も、それを信奉する者たちが確固たる意志をもって保持し献身することによって、不変性や普遍的地位といったものを獲得していきます。しかし信奉者が理解不足であったり教えに忠実でなかったり辛抱強さに欠けている場合、その大義や真理は、敵意に満ちた画策を図る敵対者によって徐々に人々の記憶から消し去られていってしまいます。

よどんだ水が悪臭を放ち、流動性を失って腐敗するように、安楽や気楽さに身を任せる怠惰な人々も、堕落し敗北者となっていくことは避けられません。安楽さに浸りたいという欲望は死に一歩踏み出したことへの警鐘であり徴候であります。しかし感性が麻痺した者はその警鐘を耳にし徴候を理解することもできませんし、友人からの警告やアドバイスに留意することもしません。

怠惰と安楽への執着は貧困と屈辱を招く主要因のひとつでもあります。ものぐさで安楽にかまけている受身的な人々は、気付いたときにはあまりに低いレベルに堕落し、基本的な必需品に至るまで他人の世話を受けなければならないことになるでしょう。

ものぐさや安楽に加え、ひとたび家でくつろぐことに極端なまでの愛着を覚えると、人は「前線」を放棄し臆病へと転じます。この低迷状態を見逃し、賢明かつ適切に対処しなければ、本来あるべき姿からの逸脱や忌まわしい結果が待っていることでしょう。

家庭での安楽、女性と過ごすことの虜となったがために「前線」を退く人々は、期待と正反対のものに遭遇しがちです。そして素晴しい家庭や可愛い子供さえ失う可能性もあるのです。ある逸話の中で、家のことを心配するあまり義務を果たさず勇敢に戦わなかった司令官である息子を非難した母親が出てきます。「お前は戦場で男らしく戦わなかった。せめて座って女のように泣くぐらいのことはしなさい」この母親の言葉は己の役割を果たすことの大切さを正しく示唆しているのではないでしょうか。

人間にとって、変化や崩壊はたいていゆっくりと静かにやってきます。時にちょっとした無頓着さや、「隊商」からほんの少しはぐれたことが、完全な崩壊や丸損を招くこともあります。にもかかわらず、転落した人々は同じ状態の同じ線上にいると錯覚するため、モスクのミナレット(尖塔)のような高い頂上から深い井戸の底に急落したことを認識していないのです。

骨の折れる仕事を離れた後、罪の意識にかられるようになる人もいます。もっとも誰でもやるべきことから逃避し怠けた人はそのように感じるはずですが、そのような人々は自分自身を守ろうとして、任務に従事し続けている他の仲間を非難し始めることがあります。彼らが逸脱したことから逃げ切ることや元の状態に戻ることは到底不可能です。預言者アーダム(彼に平安あれ)はたった一つの行いによって以前の地位を回復することができました。それはすなわち、無意識のうちに罪に陥った後、自分自身の過ちを告白したことでした。対照的にシャイターンは、重大な罪を犯したにもかかわらず自分自身の守りに努めたことで永遠の挫折に陥る羽目となったのです。

一部の人が決意や意志の力、努力といったものを失うと、周囲の人々の勇気や信心を深めようとする力にも影響が及びます。優柔不断な個人が示すほんの一瞬のためらいや乗り気のなさが、百人の人間の死にも相当するショックや失望を引き起こすことさえありうるのです。このような惨事は敵を勇気付け、私たちを攻撃する隙を与えるのが落ちです。

子供や家族、この世的な財産といったものの魅力は強力に人を引きつける厄介な試練です。この試練という裁判で勝訴する被告とは、断固たる毅然とした強い意志を持つ人々です。そして朝な夕なに、自身を捧げた真理に寄り添う誓いを心の底から新たにすることのできる幸運な人々なのです。

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