第六の風格 預言者たちの潔白さ

一般的な意味での潔白さ

1.「潔白さ」の一般的な意味

預言者たちの特徴の一つが、一切の罪を犯していないということである。私たちはこれを潔白「イスマ」と呼ぶ。

「イスマ」という語は、辞書で見ると「禁じられること、防ぐこと、あるいは庇護を受けること、守られること」という意味になる。一般的意味としてはイスマとは、「預言者たちが大小あらゆる罪から(アッラーの助けによって)守られていること」となる。つまり、アッラーは、御自身が遣わされたしもべたちに罪を犯させるような機会を与えられるようなことはなく、罪を犯させられることもないのである。

この言葉は聖クルアーンや、様々なところで使われている。その例を示そう。

預言者ヌーフ(ノア)がその息子に、「息子よ、私たちと一緒に乗れ」と言った時、息子は彼に「私は山に避難しよう、それは(洪)水から救うであろう」と答えた。ここで用いられている動詞は「イスマ」と同じ意味であり、「守る」ということを意味する。聖ヌーフの息子への返事も、同じ語根から来る言葉が使われている。「今日はアッラーのご命令によってかれの慈悲に浴する者の外は、何者も救われない」(フード章11/43)

ザリハは、ユースフ預言者の潔白さを語る際、「確かに私が引っ張って彼に求めたの。でも彼は貞節を守ったのよ」(ユースフ章12/32)と言っている。この節で使われている動詞は、「守られた、差し控えた、避けた」と言うような意味を持つ。

「(正しく)礼拝の務めを守れ」(婦人章4/103)という節で使われている動詞は、しっかりと結びつけられること、離れていってしまわないように何かにしっかりしがみつくことという意味である。これによって、アッラーの糸にすがることが命じられているのである。その糸にすがる者は、落ちたり、道をそれてしまったりすることから守られるのである。

「アッラーは(危害をなす)人々からあなたを守護なされる」(食卓章5/67)における動詞の語も同じ意味を持つ。

2.全ての預言者は潔白である

預言者は全て潔白である。彼らの人生において何らかの形で逸脱などがあったことは考えられない。彼らは選ばれた高貴な者として創造された特別な人々である。ただ価値がある、というだけでなく、価値ある者の中から選りすぐられた人々である[1]。彼らの人生もまた、この選抜と崇高さにわずかな影すら落とすことはなかったのである。

預言者たちは純粋であり、精神は気高く、その心は輝いていた。アッラーからもたらされる顕示が、衣服の上からも輝いていた。彼らは太陽の光を映し、反射させる滴、水の飛沫 のようであった。彼らの心で光が屈折したり、色があせたりすることはないのである。

そう、そのようであったのだ。そうあるべきでもあったのだ。なぜなら預言者たちは布教のために我々と共にいた。彼らの存在の意図は、ただ、布教のみなのである。つまりアッラーの命じられたことに第一に従うのは彼らである。そして彼らが受け取った命令を、そのままの形で広める。もし預言者たちがこのような澄みきった魂を持っていなかったとしたら、もたらされた神意のメッセージをそのままで伝えることに成功はしなかっただろう。

さらには、神意は彼らの望ましくないあり方、清らかでない心、純粋でない良心にぶつかり、光が屈折するように屈折する。、そして光が屈折によって変わってしまうように、そのつやのない表面、組織は自らの感覚、感情、思考を媒介として価値を判断し、望むと望まないとに関わらず、それらをゆがめてしまう。こうして、アッラーの望まれること、命じられることは本来あるべき形を失うのである。

預言者たちは同時に、最も崇高なお方、この上なく聖なるお方の神秘を我々に理解させるため、それぞれが鏡となる任務をも負っている。この鏡は曇り一つ無い状態でなければならない。心に映された真実に応えることができるために、である。

人々は、信仰、信心、宗教的実践における全ての事項を預言者たちから学ぶ。人々は宗教的にこの上なく完成された状態を預言者たちの上に見なければならないのだ。彼らに従うことによって現世と来世における幸福を獲得するためにである。人々にとって指導者であり、導師である預言者たちがもし罪を犯すようであれば、彼らに従うことはふさわしくないのである。彼らに従うことは、人にとって進む道を決める上での本能に結びつくものである。確かでない人たちについていくことは、人のこの探求に反する。

預言者は全て、罪を犯したりはしなかった。皆、行動、振る舞いにおいて最上の、完成された人生を送り、またその生を常に同じあり方で送られた。自らが天国に行けないような人が、人々の手をとって天国に導くことができると考えることは困難である。そう、しかしアッラーは全ての預言者を、人々を天国へと導くために遣わされたのである。

神意による教えと、人間が考え出したシステムや思想の間には、比較にもならないほどの差があり、前者の方がはるかに優れていることの理由もまた、預言者たちの潔白さによるものである。もしそうでなかったとしたら、状況はこのようではなかったことだろう。

預言者たちには、預言者である以前に、それぞれの理想があった。これを認めることには何の問題もないであろう。おそらくはだからこそ、預言者ムハンマドは預言者として活動される以前から、人々を救うことについて、ヒラー山で考え悩み、苦しまれたのである。そう、預言者ムハンマドはある理想と目標を持っておられた。人々をそのひどい状況から救わなければならないということである。

しかし、このお方のお力もそこまでであったのだ。人間を救う方法は、そのお方が考えられることではなかったのだ。その処方箋は直接、アッラーからもたらされるべきものなのである。主義と神意はここで大きく区別される。一つは人間が考えだしたものであり、もう一つは完全に神性なものなのだ。故に、この神の制度をもたらす預言者たちは、その他の主義を唱えた人々と全く異なる精神構造を持っていなければならず、また、皆、それを持っていたのである。

ここで次のことを述べずにはいられない。預言者たちは、主義を打ちだす人々とは異なる存在である。預言者たちはその潔白さによってより優れているのだ。だから、その預言者たちに従う共同体も、潔白でなければならない。預言者に従う集団と他の集団を分ける特質はこれだと私は考える。

疑いもないことだが、人には皆、理想がある。理想を持たない人はいい加減であると見なすことができる。預言者ムハンマドが「理想がなければ」とおっしゃられているのはこのためである。預言者たちにおいて、潔白さと罪無きことのなさは、性質そのものとなっていた。罪無きことは彼らのあり方そのものであったのだ。月の表面に、太陽の影となっている黒い部分を見ることができる。しかし預言者の魂には罪の影さえ、訪れることはできないのである。

もし聖人が罪を犯してしまったら、例えば気がつかないうちに適当でない言葉を口にしてしまったとしたら、その人の良心は生涯を通して痛み続けることであろう。しかし、あり得ないことではあるが、もしそういった言葉が預言者から発せられたとしたら、彼の良心の呵責はあの世でも続くであろう。聖イブラーヒームがその生涯で三度用いた揶揄的表現[2]に関して良心の呵責を持ち続け、仲裁を求めて彼の元にやって来る人を聖ムーサーに派遣するとされているのもその故であろう[3]。

そう、預言者ムハンマドも、その他全ての預言者も、その良心は罪に対してこれほど繊細であり、また閉じられていたのである。

我々はこの課題を掘り下げる課程において、預言者ムハンマドの潔白さについてだけ説明することを望んでいた。しかし全ての預言者は、預言者ムハンマドの表現をお借りするなら「同じ父を持つ子[4]」である。そう、彼らは皆、同じ父の教育を受けて育った子供達のような者である。だからここで、他の預言者たちの潔白さについてもわずかであれ触れずにはいられない。

特にこの崇高な精神と卓越した人格の持ち主たちのうち、書き換えられた書物のせいでその顔に泥が投げつけられようとしている人について考察し、クルアーンの光によって、彼らに向けられたその批判がいかにひどいものであるかを明らかにしていきたい。ただ先にも述べたとおり、本来の課題は預言者ムハンマドであり、その潔白さがこの課題の本筋である。

そう、全ての預言者は潔白であられた。預言者ムハンマドはその中でも最も潔白であられた。なぜならそのお方の特質は、完全に神性な顕示によって作り出されたものであり、その心の鏡には常にアッラーの顕現があったのだ。このような特質と心を持つ偉大な魂は言うまでもなく潔白である。

アッラーはその特別かつ重大な布教のため、その教えを語ることのできる特別な人たちを選ばれた。彼らこそが預言者である。アッラーは彼らを、特別であるが故に特別に守られた。その潔白さを性質そのものとされ、彼らを穢れのない状態で保たれたということである。

なぜなら彼らは、人々に道を示し、その同士となるためには常に、その崇高で清廉な状態を守らなければならなかったのである。彼らのその衣装はあらゆる泥や汚物から守られなければならなかった。導師から学び、それによって任務を果たすべき人々が目を他に逸らすことがないように。彼らは人々をアッラーの御許へ、アッラーの承認へと導くための道案内であり、またその路の保証者でもあるのだ。いかなる罪であれ、それが最も些細なものであれ、罪からはアッラーの承認は得られない。自らがアッラーの承認を得られないのであれば、どうやって他の者をそこに導くことができるだろうか。絶対に不可能である。だから、預言者たちが罪を犯すことも不可能なのである。

3.預言者たちは大小いかなる罪からも守られていた

大半の人の見解によれば、預言者たちは罪の小さいものからも大きなものからも守られていた。彼らは最も些少な罪でさえ犯したことはない。一部の預言者について言われている過ちや過失は、宗教的罪ではなく、また預言者として活動する以前に起こったものである。預言者は預言者として潔白なのだ。更に、我々がここで「小さな過失」と呼んでいるものは、彼らの位階と照合してのものである。つまりここでの小さな過失は、普通の人にとっては過失ではないのだ。彼らがアッラーに最も近い存在であるからこそ、彼らにとっては過失と見なされるだけである。

従って、彼らの位階によってこそ過失とされるものを、普通の問題のように扱うのは正しくないということを指摘したい。

彼らが潔白でなく、罪を犯すことがどうしてあり得ようか。我々でさえ、大したこともない任務に人を選ぶ時でさえ自分達なりの尺度で信用できるかどうか点検するのだ。預言者といったような重大な任務であればどうなるだろうか。その点検は非常に念のいったものとなるであろう。単純で、この世的なものでしかないことにおいてさえ、人選には細心の注意が払われるのだ。この上なく崇高で、現世と来世両方に関わる任務のためには、それにふさわしい注意が払われるのではないであろうか?その任務のため、その任務にふさわしい人が選ばれるのではないだろうか?

考えてみてほしい。預言者に神意をもたらす天使でさえ、天使たちの中で信頼という点で優れているが故にその任務を与えられているのだ。クルアーンでは、天使ジブリールについて「従われ、信頼される(使徒である)」(包み隠す章81/21)と記している。かれはアッラーに対して非常に従順であり、神意をもたらす任務において最も信頼が置ける存在だった。神意を媒介する天使たちがこのように選ばれているのに、その神意を体現すべき預言者にも同じような特質は求められないだろうか?

そう、アッラーは、このような崇高かつ清らかな任務を、嘘つきや、盗賊や酔っ払い、純潔さと対極の位置にいるような人物には決して体現させられない。このような低俗さ、弱さは普通の人間においてすら、嫌なものとされるのだ。こういったものが預言者にも見られることがどうしてあり得るだろうか。そして、預言者にそういった批判をすることができる人々はどういう人間と言えるのであろうか。そう、汚れた人には清らかさ、透明さを体現することはできないのである。そういう人が預言者であることもない。

理屈から見ても、預言者たちの潔白さは必須である。そして、預言者たちがその任務を与えられる理由であるその特質も、潔白さ、罪無きことを目標とすることもまた必須である。彼らにとって罪を犯すことは地獄に落ちることよりも苦しいことだったのである。

潔白さは非常に重要である。そもそも預言者たちは、その生き方によって潔白さというものを示しているのだ。書き換えられてしまった書物の、「馬鹿げている」と言いたくなるようないくつかの言葉を除けば、本来預言者たちの潔白さを否定しようとするものはない。クルアーンは、彼らをその価値にふさわしい形で取り上げ、常にそれぞれを清らかさの碑のように示してきた。

天においてジブリール、アズラーイール、ミカーイール、そしてイスラーフィールといった天使が何であれ、地において預言者たちがそれに値するのだ。しかし、我々はクルアーンが伝えている預言者のみを知ることができる。

イブラーヒーム・ハック氏(1703~1780、トルコのエルズルム市生まれ)はそれらを詩に詠っている。

預言者たちの名を知ることが必要だと誰かが言った

「アッラーは二十八の名を、クルアーンで私たちに教えられた
一人はアーデムで、一人はイドリス、ヌーフ、フード、そしてサーリフ
それからイブラーヒームとイスハーク、アッラーへの捧げものイスマーイール
ヤークプにユースフ、シュアイブ、ルート、そしてヤフヤー
ザカリヤとハルン、アッラーの呼びかけを受けたムーサー
一人はエルヤサで一人はイーサー、アッラーの命令を受けた者
ズルキフル、ユーヌス、どちらも預言者
最後に預言者ムハンマド、アッラーが愛される方
ウゼイルやロクマンやズルカルナについては不一致アッラーの友と呼ぶ者もいる、預言者と呼ぶ者もいる」

これらの預言者のほとんど皆、一点の汚れもない白紙のようであった。彼らに定められたものは全て、アッラーがその力と運命のペンで、人々に道を示すべく書かれたのである。そして人々の承認や、益のために与えられたのだ。

先にも述べたように、一部の学者たちは彼らが預言者として活動する以前に小さな過失を犯し得たことを認めている。しかしこの見方は少数派のものであり、証明がされているわけでもない。だから信用されている見解ではない。イスラーム学者の大多数は、預言者たちが子供時代においてさえ、罪から守られていたことを承認しているのだ。この見方を支える多くの合意がある。

4.預言者たちが潔白であることの根拠

アッラーは、恩について、聖ムーサーに次のようにおっしゃられておられる。

「そしてあなたの上に、われの愛を注ぎかける。それでわれの目(保護)のもとで育てられることになるだろう」(ター・ハー章20/39)

この節からは以下のことが読み取れる。

アッラーは預言者ムーサー(モーセ)をファラオの宮殿に住まわせられつつ、その育成をファラオにも、聖ムーサーの母にも任されなかった。アッラーは、聖ムーサーの目に変な妄想が映ったり、その魂が別の思考に包まれたりしないようにと、御自身自らで育成されたのだ。このような保護のもとで育った預言者が潔白とならず何になるというのだろう。子供の頃からアッラーの保護を受け、最上の形での育成を受けたのである。

預言者ムハンマドはあるハディース(預言者ムハンマドから伝えられた言葉や伝承)で次のように語られている。

「全ての新生児にはシャイターン(悪魔)が接触する。しかし預言者イーサー(イエス)とその母は除外された」[5]

つまりシャイターン(サタン)は、聖イーサーが生まれた時、彼に接触できなかったのだ。聖イーサーは誕生時においてさえアッラーの保護を受けた預言者なのだ。このような預言者についてどんな罪が考えられると言うのだろうか。

預言者ムハンマドはその生涯で二度、宴に行く意志をもたれた。二度ともにおいて、アッラーは預言者ムハンマドに眠りを与えられ、そのお方は道で眠られてしまったのである[6]。

もしそこに行かれていたとすれば禁じられているものを目にする可能性があったのだ。つまりアッラーは預言者ムハンマドを可能性という段階の罪の境界線にさえ近づけられずお近づけにならず、お守りになられたのだ。。この出来事が起こった時、預言者ムハンマドはまだ預言者としての任務を与えられてはいなかったのである。

預言者ムハンマドがまだ子供であられた頃の話である。預言者ムハンマドがカーバ神殿の工事の手伝いをされておられた。叔父達と共に石を運ばれ、背中に背負った石はむきだしの皮膚を傷めた。当然、預言者ムハンマドも苦痛を味わっておられた。叔父のアッバースはこのお方に服のすそを肩にかけることを勧めた。当時、そうするのは皆が普通にやっていることであった。預言者ムハンマドもそうされ、そのひざの上が少しむきだしになった。まだ一歩も進まないうちに預言者ムハンマドは仰向けに倒れられ、その目が一点に注がれ、そのまま動けずにおられた。天使ジブリールが、振る舞いが正しくなかったことを知らせ、「こういう振る舞いはあなたに似つかわしくない」と告げたのであった。

なぜなら、預言者ムハンマドは後に、そのすそを覆わせる任務をも負われることになるのであった。人々は羞恥や徳といったものを、このお方から学ぶことになるであろうからであった。小さな子供であれ、アッラーの特別なしつけの元で育っておられたのである。そう、アッラーが子供時代からその愛する方を罪から守られたのだ。しかも、最も些細な罪からでさえ。

将来の司令官候補者たちは、軍人養成学校にいるうちから、その身上がきっちりと管理される。逸脱したりすることがないかどうか、慎重に見守られている。四十年後、一定の段階に達することが求められている人は、この四十年の間ずっと、全ての行動や状態が監視される。それと同様に、アッラーも人々のための司令官達を、まだ子供の頃からこのように見守られ、保護され、罪を犯させられない。大多数の見方はこのようである。

彼らは人のうち最も価値ある存在であり、人の価値においてもその本質、源である。それは乳の湧き出る泉であり、その乳は濾されて汲まれる。クルアーンは、「本当にかれらは、わが目にも選ばれ優れた者であった」(サアド章38/47)という表現で我々にそれを伝えている。つまり、預言者たちは初めから人として最も優れた人々であった。しかし、優れた者たちが全て預言者というわけではない。預言者たちは、優れた者たちの中でも、特に選ばれた存在なのだ。

5.預言者以外の人の潔白さ

この潔白さは「預言者以外の人にもあり得ることかどうか?」という観点がある。つまり、「預言者でなくても、アッラーは一部の選ばれた人を罪から守られることがあるのか?」という点である。

大多数の意見としては「預言者以外にそういうことはあり得ない」とされている。誰であれ、大なり小なり罪は犯し得る。「完全な潔白さというものは預言者特有のものである」という見方である。預言者ムハンマドのあるハディースも、この説を支持するものとなっている。そのハディースで、預言者ムハンマドは次のように語っておられる。

「人は皆、過ちを犯す。過ちを犯す者たちの中で最も優れているのが悔悟する者である」[7]

ここである点に注意を向けてみたい。ある人について、仮定として、過ちや罪を犯し得ると語ることは、実際に罪を犯したといっていることにはならないのである。だから、預言者以外でも、人々に道を示し、指導者(イマーム)として率先者となった人々についても、アッラーによって罪を犯すことから守られていたかもしれないと言うことはできるのだ。これは、一部のシーア派にある「イマームは潔白である」という思想と全く関係のないことである。

例えば「イマーム・ラッバーニ(インドで活動した有名なイスラーム学者1563年~1668年)が罪を犯すことはあり得るか?」という問いに我々は「あり得る」と答える。なぜならイマーム・ラッバーニは預言者ではなく、可能性として罪を犯すことはあり得る。しかし「イマーム・ラッバーニは人生において罪を犯したのだろうか?」という問いには、先程と同じ答えはできない。

なぜなら誰一人として、彼が、どんな小さな罪であれ犯したことがあると示し、証明することはできないからである。

つまり、誰かについて罪を犯し得るという時、それは、罪を犯したということにはならないのだ。この意味で、アッラーが、聖人達や、アッラーに近しいとされている者たちを守られ、罪を犯させないようになされることはあり得る。

アブドゥルカディール・ゲイラーニ(イランに活動した有名なイスラーム学者1078年~1166年)は、聖人達の将軍、全ての偉人達のリーダーであった人である。アッラーはこの偉大なイスラームの指導者をも守られ、保護された。彼に関して次のような伝説が残っている。

ラマダーンの最後の日か、もう月が変わっているのか、確定されていない日において、人々は戸惑う。明日、断食をするのだろうか、しないのだろうか。人々はそれをあるアッラーの友に尋ねる。彼は次のように答えた。「今晩、ゲイラーンで一人の子供が誕生した。その母に尋ねてみなさい。もし断食が始まる時間を過ぎて子供が乳を飲んでいれば、ラマダン明けの祝日を祝いなさい。もし飲まなければ、断食を続けなさい。」彼らはそこに出向き、子供の母親を訪ねた。彼女は、「この子はどうして乳を飲まないのか」と心配しているところであった。人々は彼女に「心配する必要はない。この子は病気などではない。あなたはこの世界の父となるような子を産んだのだ」と言い、断食を続けたのであった。

これは伝説であり、イスラームの規範の四つの源という観点からも、批評の対象にすべきではないと言える。また同じ人物について、嘘を避けるために、追いはぎに金のありかを教えたということも伝えられている。[8]

アッラーは御自身のやり方によって彼らを守られ、保守され、彼らが罪を犯すことを防がれる。クルアーンのある節では次のように仰せられておられる。

「信仰する者よ、もしあなた方がアッラーを畏れるならば、かれはあなた方に識別を与え、あなた方の諸悪を消滅し赦して下される。本当にアッラーは偉大な恩恵の主であられる」(戦利品章8/29)

この節からは、次のことが明らかである。アッラーへの畏怖のうちに行動する者に対しては、アッラーの特別の保護があり得る。アッラーは、そのご命令や禁止事項への見解に特殊性を与えられており、人々はそれによって即座に善悪を区別し、罪を犯すことから救われるのだ。

他の節では次のように記されている。

「死んでいた者に、われは生命を授け、また光明を与える。これによって人々の間を往来する者と、暗黒の中にあってそこから出られないような者と同じであろうか。このように不信心者には、その行っていたことを立派だと思わせるのである」(家畜章6/122)

アッラーの教えのために尽力し、それを生涯の目的とした人々は、その誓いを守る限り

「われとの約束を履行しなさい。われはあなた方との約束を果たすであろう」(雌牛章2/40)というアッラーの原則の適用を受け、アッラーによって守られることになるだろう。なぜならアッラーは「信仰する者よ、あなたがアッラーに助力すれば、かれはあなた方を助けられ、その足場を堅固にされる」(ムハンマド章47/7)とおっしゃられているのである。

こういった補償によって、アッラーが望み給うならば、アッラーのお喜びを求める気持ちや誠実さを持ってクルアーンや信仰のための奉仕を行う者は、大罪を犯すことなく、時としては些細な罪からも保護されるのだ。ただし、この場合の保障は、条件や評価に基づくものである。預言者以外、誰であれ、絶対の保障があるということはないのである。それでも、こういった保障、保守がある出来事として現れた場合、その人たちについて、潔白だという確認がその時初めてなされるのだ。我々はそういう場合に、「アッラーは誰それを罪を犯すことから守られた、保護された」と言う。つまり、預言者以外の人には、未来における保障はないのである。預言者たちに関しては、その保障は過去も未来も全ての時間を網羅しているのだ。

現象として目に見える形で確認された罪からの保護もある。アッラーがお認めになったしもべたちが、アッラーによって保護され、守られているということが目に見え、感じられるのだ。

何も偉大な人々に限らなくても、我々皆、自分の人生について注意してみれば、条件がすっかり整っていたいくつもの罪から、予想も出来なかった形で救われ、罪を犯さずに済んでいたと言うことに気づき、驚愕する。

教友や、その道をたどる人々においては、その過去の善行があたかも未来のためのバリケードとなって、彼らを罪から守り、または守るきっかけとなっている。ちょうど、「それはアッラーが、あなたのために過去と未来の罪を赦し、またあなたへの恩恵を果たして正しい道へ導いてくださり」(勝利章48/2)というクルアーンの節の意味に加えられているようである。

これらはある意味、過去の善行のためにアッラーが彼らを保障されるということである。例えば、誰かが、罪を犯そうとしている。あるいは罪である場所に行こうとしている。アッラーは彼の足を折られ、彼をその場所に送られない。目が罪を犯すのであればその目は見えなくなり、手で罪を犯すのであればその手が動かなくなる。こういった出来事、障害によって、アッラーが愛されるしもべを守られたということが分かる。この世的には災いであったとしても、あの世での救済のためには決して災いではないのだ。

ある聖ハディース[9]では、この点に関わることとして、以下のように述べられている。

「しもべがわたし(アッラー)に近づく上で、わたしが彼に義務と定めたことよりもさらに好ましいものはない。しもべは、義務以上の宗教的実践によって、わたしへの接近を続ける。結果、わたしは彼を愛する。彼を愛すると、わたしは彼の耳となり、目となり、手となり、足となる」[10]

この意味は以下のとおりである。

私は彼に、善を、美を、よいものを示そう。そして彼を災いや悪から守ろう。彼の目になろう。彼の見るものはすべてよいものとなるだろう。その心には知識が滴り、常に鋭敏さを感じる。いつでもアッラーを思い、その思いのうちに芽吹く。常に価値のあるものを聞き、その意志はいつでも正しい方向に向けられ、そこで活動する。彼の目の前に、善というものへの妨げがどれほどあろうと、私は彼がそれを容易に乗り越えられるようにする。彼は私と深いつながりを持つ。彼が、心やその他の感情を罪によって傷つけることを私は望まない。

この聖ハディースは次の言葉で結ばれている。

「もし彼が、わたしから何かを望めば、それをすぐに与えよう。それからもし、何かの災いからわたしに庇護を求めるなら、すぐに彼を守り保護しよう」

つまり、預言者たちについてであれ、アッラーの誠実なしもべたちについてであれ、(他の人々が言っているように)仮に可能性として罪を犯すことがあり得たとしても、預言者の全てとアッラーが望まれるしもべたちをアッラーが守られ、罪を犯させないようにされることがあり得るのだ。

聖ウマルの時代に、ある若者がいた。彼はいつでも礼拝所にいた。宗教的実践に注意を払い、義務でない礼拝のやり方からも、彼がアッラーと深く結びついている人であることは明らかであった。

ある時、ウマルはこの若者をモスクで見かけなくなった。そもそも、集団礼拝が一部の宗派では義務、他の宗派でも礼拝の条件、少なくとも重要なスンナ(預言者の慣行)とされていること、イマームの後ろで礼拝をすることの神意はこれではないだろうか。イマームは後ろにいる集団をよく見て、来ていない者があればそれを尋ねる。何か問題があるのか、困っていることがあるのではないかと尋ねるのである。しかもここではウマルがイマームであり、またその集団は教友たちであったのだ。ウマルは、集団がどれほど多人数でもきっちりと見分け、あたかも毎日点検しているかのようであった。故に、この若者を見かけなくなったことから、次のように尋ねた。

「あの若者に何があったのだろうか。この二日ほど見かけないが」

人々は最初、答えたがらなかった。ウマルと目を合わせないよう、皆うつむいていた。聖ウマルはこの異常な様子に気がつき、更に尋ねた。それに対して、一人が答えて言った。

「信者の長よ、彼が適当ではない所に行く道の途中で、死体となっているのを見つけました。あなたを悲しませないためにすぐに礼拝をして埋めたのです」

ウマルは、何が起こったか理解できた。あたかもウマルの目から覆いが取り除かれ、若者そのものを目にしたようになった。その出来事は、次のようなことであったのである。

この若者がモスクへ通う際、その途上に家を持つある女性が、彼にとって問題となっていた。彼は独身であり、この女性も、彼を道から逸脱させるため、全ての手を駆使していた。しかし若者はいつでも、彼女からの誘惑に耐え、罪を犯すことから救われていたのだった。

残念なことに、誰にでも心に隙のあるときはある。その日が若者にとってはそうであったのだ。女性は全ての魅力をさらして彼を誘惑し、彼もそれに耐えられずその家のほうに一、二歩歩きかけた。

その時突然その唇から独りでにクルアーンのある章句がこぼれるのを感じた。つまり彼は、独りでに、その章句を繰り返し、何度も唱え始めていたのだ。最初は気がつかないままに口の中で唱えていたこの章句だったが、彼がそれに気がついた時には全てを終わらせる力を持っていた。天の星のように現れたその章句は次のものであった。

「本当に主を畏れる者は、悪魔が彼らを悩ます時、(アッラーを)念ずればたちどころに(真理に)眼が開くだろう」(高壁章7/201)

若者は、あたかもこの節が天から彼に新たに啓示されたかのような、精神状態にあった。今自分が行おうとしていた事項を考え、アッラーに対して恥じた。神が彼に与えられたこれほどの恵みを忘れ、一瞬であれ罪に傾斜したことに慄いた。しかもその過ちを犯した瞬間でさえ、アッラーは彼を我欲のままに残されることはなく、その章を彼の口に上らせることによって、彼を御自身へと向き直らせられたということは、この輝かしい人を激しく興奮させたのであった。彼の心臓はその精神的興奮に耐えられなかった。アッラーを思い、あちらの世界へと旅立ったのである。

聖ウマルは彼が遭遇した出来事を知ると、すぐさまその墓に走った。墓に屈みこみ、あらん限りの声で「若者よ!アッラーを畏れる者のためには二つの天国がある」と叫んだ。

ちょうどその瞬間、ウマルの声と同じ位大きな声が聞こえた。あたかも墓場の声が聞こえてきたのだ。その声は若者のものであり、こう言っていた。

「信者の長よ、アッラーは私に、あなたが言っているものの二倍を与えられた」[11]

この声は、若者のものであれ彼の代わりに天使が話したものであれ、あるいはそのどちらでもなかったとしても、はたまた天空の振動がその声を伝えたのであったとしても、そこに違いはない。若者はアッラーへの畏怖の報奨を二倍として受けたのである。

このハディースが我々のテーマと関わる点は次のとおりである。もしこの若者が罪を犯して倒れたのであったとしても、その罪は彼のみのものである。なぜなら長や指導者としての責任を彼は負っていなかったからである。しかしもし、一人の預言者が罪を犯したとしたら、この世界が倒れてしまう。なぜなら彼らは世界を顕現するべき位階にあるからである。一人の若者を罪から守られるアッラーが、このような状態にある預言者を守られないことがあり得ようか?

預言者ムハンマドはあるハディースで、完全な信仰を得ている人々について、次のように語っておられる。

「教えへの憎悪を抱くことを、地獄へ落ちること以上に恐ろしいことだと感じる人は、真の信仰を得ている」[12]

普通のありきたりの人を思い浮かべてほしい。アッラーが彼を憎悪や否定といったものから救われた後で再び後戻りすることは、地獄に落ちることよりもなお、ひどいことだと感じられるようになる。彼にそうさせるもの、彼を罪から退かせるものは、その信仰から得る喜びである。

預言者の罪を主張する人々は、彼らの信仰を、この普通の人の信仰よりもなお下に見ようとし、その主張をしているのだろうか?

預言者たちの信仰が、罪から自らを退かせるに十分でないなどということは、決して、絶対に、あり得ないことである。

預言者たちのみならず、多くの聖人達もまた、このように守られていた様子を知りたい人々は、いくつかの本に目を通せば満足できるだろう。そして何百人ものアッラーの友たちがいかにして罪から守られてきたかをわかりやすい逸話によって知ることができるだろう。

例えば、一人のアッラーの友の前に食事が運ばれてくる。しかしその食べ物にはハラーム(宗教上禁じられたもの)であるものが含まれている。彼はそれを口にし、長いこと噛んでいるがどうしてもそれを飲み込むことができない。そして彼は、それにハラームのものが含まれていることを理解するのである。一人のアッラーの友でさえ、一口分のハラームからも守られるアッラーが、預言者を守られなかったと考えることはどれほどの無理解であろうか。考えてみてほしい。

そう、潔癖さは預言者には必然であり、預言者としての風格である。全ての預言者はその風格を与えられ、この世に来る。言い換えるなら、この風格を持たない者は預言者ではないのである。

預言者たちの潔白さの証明に移る前に、彼らの潔白さに影を落とそうとする変更が加えられたものである旧約聖書や新約聖書におけるいくつかの逸話について見ていきたい。それからそれらをクルアーンの原則において考察し、批判者たちへの答えを準備していこう。ただしまずここでいくつかの点について注意を喚起しなければならない。

6.潔白さという観点から見た過去の啓典とクルアーン

旧約聖書、新約聖書、詩篇(ゼブール)[13]といった、元はアッラーから啓示されたものであるにも関わらず変更が加えられ、人間の言葉が混じってしまっている書物において、真実を見出すこと、思考の根拠とすることはできない。これらの本において預言者について記されている、普通の人に対してさえ適当とは言えない悪い定義づけは、これらの本に変更が加えられていることによるものである。つまり、ある意味で、これらの本に変更が加えられていることを示す証拠が仮に何もなかったとしても、この批判と中傷に満ちた書き方そのものが、その証拠として十分?なのだ。

アッラーはこれらの本に、保護という保障を与えられなかった。しかしクルアーンについては、「本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである」(アル・ヒジュル章15/9)と仰せられ、アッラーによる教示とその保護について言及されておられる。だからこそ、クルアーンの価値は最後の審判の日まで保たれるという点で見解が一致しているのだ。なぜならそれは保障されているからである。つまり預言者について考える上で、基本的な拠り所はクルアーンであるべきである。他の書は変更が加えられている以上、クルアーンにおける記述と相違するものがあればそれは無効となる。それらの書には人間の感情や思考が混入しているからである。預言者やその潔白さといった問題に関しては、誰であれ人間に何かを述べる力はないのである。ただ預言者たちのみが、こういった過去の知られない事項について、神意を基に語ることができる。預言者ムハンマド以降、そういったことを語るべき預言者も存在しない。最後の預言者は、語られるべきことを全て語りつくしたのだ。聖イーサーは発言をこのお方に譲り「私は行く。この世の主が来るであろうために[14]」と言ったのであった。

私にとって不条理な描写は好ましいものではない。しかしその必要性に応じて、これらの変更が加えられた書物からいくつかの中傷の例を示し、それからそれに関わるクルアーンの見解について述べたいと思う。

不本意ながらも引用しなければならない一部の例について、輝かしい預言者の霊に助けを乞い求め、私を赦すことを願う。彼らの潔白さを証明するために、私はいくつかの不条理な言及について述べる必要に迫られているのである。

7.過去の書における預言者たちへの中傷

創世記の228ページでは、預言者イブラーヒームの甥でもある預言者ルート(ロト)が自分の娘たちと関係を持ち、酒を飲み、姦淫を行い、その血筋がその娘たちから続いたというような戯言が記されている。

考えてみてほしい。ソドム市とゴドム市は、この預言者の言葉に従わなかったことによってその民と共に地の底に埋められたのだ。アッラーは聖ルートのような徳に優れた勇者を彼らに遣わされ、彼らはその徳に反したのである。だから人々もその罰を受けたのだ。他に一切根拠がなかったとしても、この地の底に埋められた荒廃した町の家々の破壊された屋根などは、聖ルートの徳の証拠として十分ではないだろうか。またこのような描写を含んでいる本を、神の書と呼ぶことはできるだろうか?

創世記の38章の228ページでは、預言者イスハーク(イサク)の息子で、預言者である可能性のある「ヤホザ」について書かれている。そこでの説明によると、ヤホザは自らの息子の妻と姦通を犯し、ダーウード(ダビデ)やスライマーン(ソロモン)、その他のイスラエルの預言者たちの血統はそこから続いているということである。

イスラエルの全預言者たちに投げかけられたこのひどい中傷は、当然根拠のない偽りでありこじつけである。預言者ムハンマドは、御自身の血統が聖アーデムから続くものであり、常に正当な婚姻によって継続してきたことを明らかにされておられる[15]。別のハディースでも、「全ての預言者たちは同じ父の子である[16]」と言われておられる。預言者ムハンマドの輝かしい血筋には姦淫などはない。その場合他の預言者についても同じことが言える。そもそも預言者ムハンマドは、聖イブラーヒームの子孫ではなかったであろうか。ここで出てくるヤホザもまた、聖イブラーヒームの子孫である。預言者の家に姦淫はあり得ない。数人でする礼拝において、もし他に人がいるなら姦淫によって生まれた人がイマームを努めることさえ、よくないこととされているのである[17]。それなのにそんな姦淫によって生まれた人がどうして全人類のイマーム、つまり預言者となることができようか。あり得ることであろうか?

別のところでも、聖スライマーンが人生の終わりになってアッラーが顕示された教えを放棄し、偶像を崇拝したことが書かれている。預言者であり、アッラーが現世と来世において王位を与えられた人である。彼も、与えられる恵みに対して感謝を深めていった。そして神に対し、感謝のためにふさわしい形で崇拝行為を行ってきたのである。

クルアーンは聖イーサーについて「聖霊で彼を強めた」(雌牛章2/87、食卓章5/110、蜜蜂章16/102)と表現し、聖イブラーヒームについては「親しい友」(婦人章4/125)、聖ムーサーについても「親しくアッラーは語りかけられた」(婦人章4/164、高壁章7/143)と表現される一方、聖ダーウードとその家族についても「ダーウードの家族よ、感謝して働け」と語り、彼らにも同じ特性を与えているのである。

旧約聖書の別のところでは、聖ダーウードが軍の司令官の一人ウリヤを殺し、その妻を奪ったことが記されている。野蛮な人々でさえ、夢に見ただけでも悔悟するような蛮行を、クルアーンが「何と優れたしもべではないか」と述べているこの預言者が行ったと主張する本が、どうして神による書であり得るだろうか。わずかでもその可能性があるとすることは、預言者についても、預言者のあり方についても全く知らないことを示すものである。ダーウードは、その顔に涙のあとが残っている人であった。彼がいる集まりでは、アッラーへの熱愛から心臓が過度に脈打って死んでしまう人が毎日でた。彼は常に泣き、また周りも泣かせた。彼はいつでも悔悟して祈る人であった。常に、ああ、と嘆き悲しんでいた。従順の人であり、決してその顔を主から背けなかった。常にしもべとしてあることが彼の称号となった[18]。

彼の行った断食は最も徳のある断食と、預言者ムハンマドは認めておられるのだ。預言者ムハンマドは、ナーフィラ(義務でない)の断食の最上の徳を求める教友に、聖ダーウードの断食を勧められた。聖ダーウードは一日おきに断食をされたのである[19]。

彼は一人の皇帝でもあった。国家の財産は常に彼に委ねられていた。しかし、ほんのわずかであれその財産を私用することは考えもしなかったのだ。彼は自らの賄いは自分で稼ぎ、家族に必要なものもその稼ぎで購入した。口に入れる一かけらの物にさえこれほどの注意を払う人について、そしてしもべとしてのあり方が称号となっている程のこの預言者について、これらの変更された書物がどのように扱っているか見てほしい。最も残虐でひどい行為をこじつけているのである。聖ダーウードの崇高で、清廉で、潔白なその空想の世界にすらこのような行動は一瞬たりとも宿ったことはなかった。そのようなことを行動に移したかどうか、考えるまでもないことである。

さらに同じように、旧約聖書に次のような理解に苦しむ記述が見られる。

「イスラーイルはアッラーに格闘技で挑み、勝った」

ここでイスラーイルと呼ばれているのは聖ヤークーブ(ヤコブ)預言者である。西洋人の物質主義の思想が、これらの書にも伝染している。アッラーを(絶対にないことであるが)一人の人間であるかのように見なし、預言者と格闘技をさせているのである。

聖ハムザがまだムスリムになる以前に、預言者ムハンマドのもとに来て語ったことが、あたかもこれらの返事となっているようである。彼はこのように言った。「わが兄弟の息子よ。砂漠でたった一人になった時、私は理解しました。アッラーの偉大さは、四方を壁で覆われたところには収まらないほど大きいのです」[20]

神性なものとされている一冊の本があると考えてみてほしい。その本は、イスラームに入信するより前にこのように語った聖ハムザの意識レベルにすら達していないのである。アッラーへの理解がこれほど不十分である本を、どうして神性なものと見なすことができようか。彼らが預言者について語っていることを信じることができるだろうか?

旧約聖書も新約聖書も、アッラーやその預言者たちに対する中傷や虚言に満ちている。片方が中傷の源であり、もう片方は虚言の毒である。

クルアーンは、預言者たちに対する全ての中傷を否定する。彼らは全面的に従うべきリーダーであり、導師である。クルアーンは、預言者たちに従うことを確かに命じているからである。預言者たちは皆、アッラーのお喜びを我々に反射させる鏡なのだ。彼らにおいてわずかでも穢れや塵を見出すことは不可能なのである。クルアーンはこのことを示しつつ、我々に彼らの素晴らしさを語り、預言者ムハンマドにも、それを語ることを命じているのだ。

時に、預言者たちに対してのクルアーンでの記述が誤解されることがある。それを預言者たちの罪や過ちとし、また時にはそのような考えが支持されることもある。もちろんこのような過ちを犯す者の大多数が、クルアーンの節を狭い意味でとることにこだわった者であり、少々視野の狭い者である。彼らももう少し注意深く、広い視野を持って考え、固定観念を払拭し、イスラエル人たちの書物のあり方に対して十分な備えをしていれば、大多数の学者たちと同じように考え、偉大な預言者たちに対してもう少し敬意を払うようになったことであろう。[21]

 


[1] Muslim, Fadail 1; Tirmidhi, Manaqib 1
[2] 揶揄的表現は一見嘘のように見えるが、実は真実を示すために偽りの表現を使い、相手の非論理性を気づかせる表現である。これらについては整列者章37/89、預言者21/63、Buhari, Enbiya 8; Muslim Fadail 154を参照
[3] Muslim, Iman 326
[4] Buhari, Anbiya 48; Muslim, Fadail 144; Abu Dawud, Sunna 13, Takwir 81/21
[5] Buhari, Anbiya 44; Musnad 2/288
[6] Ibn Kathir, al-Bidayah 2/350-351
[7] Tirmidhi, Qiyamah 49; Ibn Maja, Zuhd 30
[8] An-Nabhani, Camiu Karamah al-Avliya 2/203
[9] 訳者注 アッラーの言葉そのものであるクルアーンや、預言者ムハンマドの言行録ハディースに対して、聖なるハディース(ハディース・クドスイー)は、アッラーの意図するところを預言者ムハンマドの言葉で語ったとされるハディースの一種である。
[10] Bukhari, Riqaq 38; Musnad 6/256
[11] Ibn Kathir, Tafsir 3/539
[12] Bukhari, Iman 9; Adab 42; Muslim, Iman 66; Tirmidhi, Iman 10
[13] 訳者注意 ムーサー預言者に授けた旧約聖書に次いで、ダーウード預言者に授けた経典
[14] 参照 新約聖書、ヨハネによる福音書16/7~8
[15] Ibn Kathir, al-Bidayah 2/313-314
[16] Bukhari, al-Anbiya 48; Muslim, Fadail 144
[17] Marginani, al-Hidayah 1/56等
[18] 「本当に彼(ダーウード)は,(主の)命令に服して讃美しつつ常に(主の御許に)帰った」(サバア章34/13)
[19] 参照 Bukhari, Tahajjud 7; Sawm 59; Muslim, Siyam 182等
[20] Ajluni, Kashf al-Khafa' 1/147
[21] 訳者注意 預言者ムハンマド以外の預言者の潔白さについての章は短縮されました。

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