不信仰に固執する原因

不信仰に固執する原因

質問: 不信仰は人の心の中で深い空虚感や不安感として現れますが、それでも多くの人々はそれに固執しています。この理由は何でしょうか?

答え:不信仰は、人生をいつ何時何が起こるか分からない混沌とした恐ろしい戦場のように思わせ、死を永遠の破壊と見なさせるもので、決して魅力的なものではありません。人間にとって潜在的脅威を伴う絶え間ない不安の元であり、恐ろしい断崖、空洞です。人の目や耳を塞がせてしまうある種の弱さがいくつかあり、それに囚われるとこれ以上ないほど明白な真実を認めようとしなかったり、信仰を持たなかったり、否定に向かって漂流することとなり得ます。この点について以下で取り上げていきます。

傲慢さ

自分自身を偉大だと見なす人間はアッラーの前に頭を垂れることを拒否することがあります。しかし聖なるハディースで述べられているように、

اَلْكِبْرِيَاءُ رِدَائِي وَالْعَظَمَةُ إِزَارِي فَمَنْ نَازَعَنِي وَاحِدًا مِنْهُمَا قَذَفْتُهُ فِي النَّارِ

「栄光は私の上着であり、尊厳は私の下着である。誰であれこの件で私と争おうとするものがあれば、地獄へと投げ込むであろう[1]」。すなわち、偉大さはただアッラーだけに属するものであり、この点でアッラーと競い合おうとしたり、自分自身もその一端を担おうとするなら、アッラーはその人を地獄に投げ込まれます。真の偉大さがアッラーのみに属するのであれば、人間がなすべきはかれの僕となることです。永遠は唯一なるお方だけのものであれ、その他すべてのものや人はかれの御前においてゼロであることを認めなければなりません。

ベディウッザマン師はこの点について、「自己言及的な意味」と「他者によって示される意味」という概念を通じて説明しておられます。人間は後者の「他者によって示される意味」(もしくはアッラーを明示する意味)という点から見られるべきです。それ自体では何の意味もなさない一つの文字が意味を有するには単語の中に現れる必要があるように、人間も同様に創造主に帰属することによって本当の価値が見出されるのです。人間をそれ自体で何らかの意味を為す独立した存在として見なすことは単なる妄想に過ぎません。この視点から見るなら、我々の時代に盛んに言われるようになった「自信」とかそれに似通った概念は、アッラーへの信頼によって真の深みを獲得しなければ何の価値も見出せないでしょう。根本的に、人間の自由意志、何かに傾く気持ち、その気持ちを意志を伴った選択へと変える能力は、アッラーから我々に授けられた贈り物です。アッラーはご自身の意志からその一部を人間にも授けてくださいました。人が相対的に存在している人間の意志を行使して何かを選択するとき、アッラーはご自身の権威によってそれを実現させてくださっているのです。人間が自分自身をこのように見なすとき、多くの問題が解決されます。エジプトのファラオの発言、

أَنَا رَبُّكُمُ الْأَعْلَى

「わたしはあなたがたの主、至高者である」(引き離すもの章 79:24)というような考えは傲慢なさが鼻息を立てているようなものでしょう。ファラオのこの言葉はシルク(アッラーと同列に他の何かを置くこと)と不信仰の表れであるのと同じく、「私が救った、私がやった、私がまとめた、私が皆をこれこれの悪から救った・・」などといった考えを抱くことも間接的に一種の神性を主張しているようなものであり、隠れたシルクとなります。同時に二つの「私」が存在することはあり得ません。「自己」もしくは「自存」といったものは本当の意味で神性の持ち主に属するものであることを考慮すれば、人間における「私」は、アッラーの存在を認識させるために(なぞらえるための)尺度として人間に与えられた相対的存在にすぎません。つまり人間は、己の相対的な意志を通じてアッラーの至高の意志を理解し、己の行いを通じてかれの行いを理解し、己のほんのわずかな知識をもってしてかれの無限の知識を知り、己の限られた視覚を用いてかれのすべてを網羅する視覚を理解しようとすることを予期されているのです。

加えて、人間の欠点、限界性、人間の感覚の分かりやすさなどは、アッラーに属するものの理解しにくさを分かる手段ともなっています。

وَلَا يُحِيطُونَ بِشَيْءٍ مِنْ عِلْمِهِ إِلَّا بِمَا شَاءَ

「かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである」(雌牛章 2:255)という節で人間の限界性について記されている通りです。すべてを包含するものが同時に包含されることはあり得ません。すべてを包含するのはアッラーです。つまり、かれはご自身の知識、意志、力、そして行いを用いてすべてを包含されます。我々はかれに包含されるのです。人はアッラーとの関係性において自らを正しく位置づけることができないと、信仰を欠いた状態となってしまいます。傲慢に基づいたこのファラオ的な考え方が、信仰を否定するほとんどの人々に潜む原因です。

不正を働くこと

信仰を持つ上で大きな障害となることに、境界を知らないこと、制限を認めないことがあります。これも一種の「ズルム」、すなわち不正を働くこと(ここには小さな事柄における逸脱から、アッラーを否定するような許されえないものまで、広範にわたる誤った行いが含まれます)であることに疑いはないでしょう。暴君や不義を働く者による信仰の否定の裏にはこれが潜んでいます。これらの人々は出来事をなんでも自らの強さや権力と結びつけて考えるために敗者となってしまうのです。クルアーンではこの点において原型であるカールーンが顕著な例として描写されています。

「かれは言った。『これを授かったのも、わたしが持っている知識(能力)のためである。』アッラーがかれ以前に、いく世代を滅ぼしたかを、知らなかったのか。かれらは力の点でかれよりも強く、蓄えも巨額であった」(物語章 28:78)。この節で述べられているように、アッラーは、権勢を誇った多くの社会、山を動かすことさえできた人々などを、己の境界に無知であったがゆえに制圧し完全に葬ってしまわれたのでした。

誤った見方

人が不信仰となる別の原因として誤った見方があります。ご存知のように、ベディウッザマン師は意図と見方を非常に重視してらっしゃいました。それは40歳までの人生における30年間に及ぶ研鑽で4つの根本的な言葉を学んだこと、また意図と見方もそのうちの2つであることを述べておられるほどです。見方は存在と現象を理解し解釈する上で極めて重要な要素です。きちんとした見方を身につけなければ、見るべきものを全く見ることができないか、正しく見ることができません。研究したり調べたりすることである程度の地点まで到達することができるとしても、どこかで行き詰ってしまい、神性を持つお方の真実には決して至ることができません。見方で重要となるのは、見る対象となるすべてのものをその本質通りに見ることができるということです。つまりこれは何かをその真の姿どおりに見る努力です。それゆえ人はその物事を正しい見方で見る必要があります。加えて見方の目標とするところは、見えることです。例えば蔵書がたくさんある本棚を見るとして、目的もなく見るだけでは目の前にある本の書名や色が見えることはないでしょう。ですから、見ることと見えることは別物として混同させてはいけません。

ファラオの道を逸れたものの見方を示すために、クルアーンでは彼のなした発言が記されています。「『ハーマーンよ、わたしのために高い塔を建てなさい。わたしが(天国の)門に到達出来るように。そうすればムーサーの神を見るでしょう・・」(ガーフィル章 40:36-37)。現代でも、ある宇宙飛行士が同様のひねくれたものの見方をして、自分は地球の周囲を回ったが神には出会わなかったという発言をしています。これを聞いた有名な詩人のネジップ・ファズルは「愚か者よ、神が宇宙に浮く風船だと誰が言ったのだ!」と応答しました。ですから時間や空間、物質に包含されることのできない、いと高き創造主をあたかも有形物であるかのように探すことは、究極に逸脱したものの見方です。一部の人々はこうした沼地にはまり込んでしまったがためにどうしても信仰を見出すことができないのです。

祖先のやみくも的な模倣

祖先に従うことも不信仰の別の原因となります。クルアーンでは多くの節で、不信仰者たちのこの誤った態度が強調されています。例えば次のような節があります。「かれらに、『アッラーが啓示されたところに従え。』と言えば、かれらは、『いや、わたしたちは祖先の道に従う。」と言う」(雌牛章 2:170)。歴史を通じて、信仰しなかった人々、また信仰を望まなかった人々は、誤った導きを得た先祖を自分なりに見つけて、その人をやみくもに模倣しているのです。こうした人々にとっては、石や木、さらには(イスラム以前のマッカ社会のように)甘いもので作った偶像でさえも祖先が崇拝していたのなら、「疑う余地は無い」のだそうです。祖先が言ったこと、行ったことには間違いは見当たらない、と。というわけでこれも、人々が損害を被り、信仰がない状態となってしまう非常に重要な点の一つです。

ブヨの一刺しを逃れようとして・・・

以上で挙げた妨げの数々を見てみると、合理性、論理性に欠き、また健全な考えとして受け入れがたいことが分かります。これら不信仰の原因として列挙された要素は、助けとなってくれるものであるとも言えません。こうして、信仰を持たない人々は、支えになってくれると勘違いしたものに頼り続けることで不信仰を保ち続けるのですが、人にとって全く役に立つものではあり得ません。この状況にいる人々は一時的な慰めで癒しを得ようとします。その心の中では、信仰の領域に足を踏み入れないことによって責任を回避し癒しを得る道を見出しています。なぜなら信仰とは単に理論的な事柄に収まらないため、信仰及び宗教を認めると、宗教的実践の責任が発生してしまうからです。そこではある種の責任を全うし、禁じられたある種の事柄をやめるようにしなければなりません。言い換えれば、「私は信じます」と言うだけでは十分ではないのです。それを認めた後、正しくて良い行いとして知られる命令を実践し、宗教で禁じられた下品で不道徳な恥ずべき行いは放棄する必要があります。中にはこれらを人生を楽しむ上での障害となると勘違いし、信仰の領域に足を踏み入れないことにこだわる人々もいます。ベディウッザマン師の言葉にあるように「・・・僕としての義務でほんのちょっとした不快感、厄介さを感じることに難色を示し、アッラーの存在を否定することで、彼らは自分自身をそれより何百万倍も悲惨な精神的困難の標的としてしまっている。ブヨの一刺しに悩んでいる間に、蛇の一噛みをおびき寄せているのだ」[2]。さらには、この世で癒しと見えるものは来世では何の役にも立たなければ助けにもならないのです。

最後に一点述べさせてください。信者はこうした不信仰につながる障害をすべて乗り越えて信仰の領域に入ったわけですが、これら妨害や弱さはどれも依然、危険として迫っている事実を認識しなければなりません。信仰の領域に足を踏み入れることに対する障害として上で列挙した要因はすべて、アッラーがお守りくださることを祈りますが、人が信仰の領域から足を踏み出す理由ともなりえるのです。これらの病気や弱さが人の感情や思考の中で一定の優勢を占めるようになり、良心を追い詰めてそこに穴やひび割れを負わせるよう働くと、人は気づかぬうちに信仰の領域から投げ出されることもあり得ます。

例えば預言者様(彼に祝福と平安あれ)は傲慢さに関してこう仰っています。

لَا يَدْخُلُ الْجَنَّةَ أَحَدٌ في قَلْبِه مِثْقَالُ حَبَّةٍ مِنْ خَرْدَلٍ مِنْ كِبْرٍ

「心の中にからし種の実の重さほどでも高慢さを持つ者は、天国に入ることはできない」[3]。これに関して、人は常に自分自身に向き合い、アッラーの恵みを自分自身の中に見出し、絶えずかれを称えてその恵みに感謝を表明し、この恵みが元で地獄へと道を迷ってしまう可能性もあることを忘れるべきではありません。

[1] サヒーフ・ムスリム「ビッル」136、スナン・アブー・ダーウード「リバース」26
[2] ベディウッザマン・サイド・ヌルスィー「閃光」
[3] サヒーフ・ムスリム「イーマーン」147

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