タワドゥ(謙虚さ)

タワドゥ(謙虚さ、慎み深さ)は横柄さや高慢さ、傲慢さの反対のことです。また、アッラーの前における自分の本当の位置というものをわかっていることや、その認識がアッラーと人々に対する自分の行いを定めることとも解釈されます。もし自分自身を平凡な被創造物の一部、すなわち、扉の敷居や、床や敷石に広げられたマット、小川の中の小石、野原の中のもみ殻として捉えたら、そして、もしムハンマド・ルトゥフィ・エッフェンディがしたように心から「他の人は皆良いのに私は悪い。他の人は皆小麦なのに私はもみ殻だ。」と認めることができたら、天国の住人がその人の頭に口づけるでしょう。

預言者(彼に平安と祝福あれ)の伝承で「謙虚な人は皆、アッラーの賛美を受ける。高慢な人は皆、アッラーが屈辱を与えられる。」と言われています。したがって、人の本当の偉大さは自分が偉大であるように振る舞うことに反比例し、本当の小ささは自分が小さい者であるように振る舞うことに反比例するのです。

タワドゥは様々な方法で定義されています。美徳はすべて本質的に自分自身から生じているものではないと考えること、他人を謙虚に丁重に扱うこと、(アッラーから特別な扱いを受けるという栄誉を授けられていない限り)自分自身を人類の中で最悪の者だと考えること、そして、どんな自我の動きにも用心深くあり、それをすぐに抑えることです。それぞれの定義がタワドゥの要素を表していますが、最後の一つはアッラーご自身によって誠実な者とされ、アッラーに近しい人々に関係のあるものです。

教友の一人はカリフ・ウマル(彼にアッラーのお喜びがありますように)が水差しに入った水を肩に担いで運ばれているのを見ました。彼は尋ねました。「何をなさっているのですか、アッラーの使徒様のカリフ(後継者)様?」アッラーに最も近しい人の一人、ウマルは答えました。「外国の外交使節が来たのですが、私は心の中にうぬぼれを感じたので、それを抑えたかったのです。」ウマルはかつて小麦粉を背中に担いでいました。説教壇の上で話している時に彼は自分自身を責め、黙ってしまい、人々が彼の行動について質問し批判したこともありました。

アブー・フライラはメディーナの副知事だった時に木材を運びました。ザイード・イブン・サービトは、メディーナの主席裁判官だった時、イブン・アッバースの手に口づけし、イブン・アッバースはクルアーンの解釈者としてまたウンマ(共同体)の学者として高名だったのですが、ザイードが馬に乗るのを手伝いました。預言者(彼に平安と祝福あれ)の孫のハサンは、パン屑を食べている子供たちと一緒に座り一緒に食べました。アブー・ダッルがビラール・アル=ハバシを傷つけてしまった時には、彼の許しを得るため、頭を地面につけて言いました。「ビラールの祝福された足がこの罪深い頭を踏み付けることがなければ、この頭は地面から離れることはありません。」これらの出来事やこのようなたくさんの出来事はすべてタワドゥの実例なのです。

全能のアッラーと彼の使徒はどちらもタワドゥについてとても強調されたので、そのことを知っている者はしもべたることがタワドゥからなることに疑いを抱きません。クルアーンの『慈悲深き御方のしもべたちは、謙虚に地上を歩く者、また無知の徒(多神教徒)が話しかけても「平安あれ。」と(挨拶して)言う者である。(25:63)』という節はタワドゥを賞賛し、『信者に対しては謙虚である(5:54)』や『お互いの間では優しく親切である。あなたは、かれらがルクウしサジダして、アッラーからの恩恵と御満悦を求めるのを見よう。(48:29)』というアッラーのお言葉は、行いに映された、深くしみ込んだタワドゥに対する賞賛の表現なのです。

タワドゥに関して、預言者(彼に平安と祝福あれ)は次のように述べられています。「アッラーは私に、あなた方は謙虚でなければならず、誰も他人に対して自慢してはいけないとおっしゃられた。地獄の火が触れない人のことを教えよう。地獄の火はアッラーに近しく人々に優しく、温和で仲良くなり易い人には触れないのである。アッラーは謙虚な人を賛美される。その人は人々の目から見たら本当に偉大であるのに、自分のことを小さな者だと捉える。おぉアッラー、私に自分を小さく思わせてください。」

預言者(彼に平安と祝福あれ)は人々の中で最も謙虚な者として生きられました。彼は子供たちが集まって遊んでいるところで足を止め彼らに挨拶されました。誰かが彼の手を取って彼をどこかに連れて行こうとしたときには、彼は決して逆らいませんでした。妻たちの家事の手伝いもされました。人々が働いている時には彼も働かれました。自分の靴や服は自分で繕われ、羊にミルクを与え、動物に餌を与えられました。彼は召使と一緒にテーブルにつかれました。彼はいつも貧しい人々を温かく迎え、未亡人や孤児の面倒をみて、病人を見舞い、葬式の行列に加わられ、奴隷の呼びかけにも応えられました。

アッラーの使徒(彼に平安と祝福あれ)をはじめ、カリフ・ウマルやウマイヤド・カリフ・ウマル・イブン・アブドゥルアジズ、数え切れないほどの敬虔な人々、清く素晴らしい学者たち、そしてアッラーに近しくあるという栄光を与えられた人々まで、アッラーの愛されたしもべたち。彼らは、偉大であることのしるしは謙虚さと慎み深さであり、小ささのしるしは横柄さと虚栄心だと考えていました。この理解に基づいて、彼らはどうしたら素晴らしい人になれるのかを人々に示そうとしてきたのです。

本当のタワドゥは、アッラーの無限の偉大さの前における自分の価値の限界というものを知ること、そしてこれを理解したことの持つ可能性を、自分の性質に深く染み込ませ本質的部分とまですることを意味します。これを成し遂げた人々は、謙虚であり他人との関係でもバランスがとれています。全能のアッラーの前に自分は無力であると気付いた人々は、宗教的生活においても人々との関係においてもバランスがとれています。イスラームという啓示された真実に対して何の異議もなく、人間の理性に対し与えられた規律についての批判もせず、彼らはイスラームの戒律に従います。彼らはクルアーンと預言者(彼に平安と祝福あれ)の真正の伝承にあることが真実だと確信しているからです。

もしこれら二つと人間の理性もしくは合理的科学的事実が明らかに矛盾するようなことがあったら、彼らは問題となっている事柄の真実を探求するでしょう。それゆえ、謙虚さや慎み深さもない人々が、理性や合理性を前提としたことと、啓示され語り継がれたイスラームの原理との間に明らかな矛盾があるときに、理性や合理的なことが正しいはずだと主張するのは無意味なことなのです。推理や類推に基づく判断は啓示された原理よりも優先されるべきだという彼らの主張も誤りです。預言者(彼に平安と祝福あれ)がとられなかった方法によって起こる不思議なことや、彼がとられなかった方法によって感じられる精神的な喜びは、アッラーが人々を破滅へと導かれる道であり、そのような努力における「成功」は罪へとつながっているのです。

タワドゥを達成した人々は、預言者が言われたことや行われたことの真実性を完全に確信しています。彼らはそれを疑うことは決してなく、それを自分の人生で実践しようとするのです。もし賢い諺や偉業の達成など他のことの方が美しく見えたり正しく思えたりしたら、彼らは自分自身を、啓示された真実とその表現という比類なく超越するものを見分けることが出来なかったと責めるでしょう。そして次のように言うのです。

多くの人が欠陥のない言葉に誤りを見出す。
しかし、誤りは彼らの不完全な理解にあるのだ。

クルアーンとスンナに反するような方法では来世において成功することはできないということを、彼らは確信しています。彼らはアッラーのしもべであることに最大の力の源を見出します。実際には、アッラーを崇拝する者は決して他のものをあがめることはなく、他のものに仕える者は真のアッラーのしもべではないのです。ベディウッザマンの次の言葉は何と適切なものでしょうか。

アッラー以外の何をも何者をも、崇拝の対象やしもべとなることに値するほどにあなたよりも優れていると思ってはいけません。自分が他人よりも優れていると思うような方法で、自分に自信を持ってはいけません。被創造物は崇拝される対象であることからは程遠いという点において皆同等であり、創造されたという点においても皆同等であるのです。

真の意味で謙虚な人々は、自分のしたことや努力を自分の成果だと考えることはなく、アッラーの道での成功や努力が自分たちを他の人々よりも優れたものにすると考えることもありません。彼らは他の人々が自分のことをどう考えるかには興味がなく、アッラーの道での奉仕には見返りを求めません。自分が他の人々から愛されることは自分の誠実さに対するテストであると考え、自分自身について他人に自慢するようなことでアッラーのお恵みを利用するようなことはしないのです。

つまり、フルク(良い性質)やアッラーの性質(寛大であること、慈悲深いこと、助けになること、許すことなど)を持つことへの入口として、タワドゥもこれも創造主と被創造物へと近づく手段の大切な第一歩目なのです。バラは地面に育ちます。人類は天国にではなく地面の上に創られました。信仰する者はアッラーの前にひれ伏した時、アッラーに最も近づくことができます。クルアーンの預言者の昇天についての話の中では、彼の謙虚さと最高の慎み深さのしるしとして、彼はアッラーのしもべとして呼ばれているのです。

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